こんばんは。
Shunichiroです。
先ほどまでとは観点を思い切り変えて、今回のエントリではガラパゴス携帯と揶揄された日本のモノづくりと、世界中で大ヒットとなっているiPhoneについて考察していきたいと思います。
この問題を考えるときには「日本にはiPhoneを作るだけの技術は存在していた。しかし、開発できなかったのはなんでだろう?」とよく言われます。iPhoneの開発の問題は、技術の問題ではないのです。いったい何が日本のガラパゴス携帯とiPhoneの違いを生んでいるのでしょうか?私はそれは両者の開発の根底に流れている、国民性の違いにあると考えています。
日本は、昔から農耕社会であり、共同社会が存在し、お互いへの配慮や気遣いに長けた国であるとよく言われます。日本人の接客やきめ細かな配慮など、サービス業の質は世界一だと言われています。実際に日本人の持つ相手への配慮や気遣いなどは日本の長所であり、世界に誇ってもいい心遣いだと思います。
しかし、製品開発の世界においては、それが裏目に出てしまったように思われます。
気の利く日本人は、携帯電話の開発に当たって
「ユーザーはこんな使い方もしたいんじゃない?」
「こういう機能あると嬉しいよね」
「だったらこういう機能もあったほうが便利」
「いざという時のために、こんな機能もいるんじゃない?」
・・・
という形で(あくまで妄想ですが(笑))、ユーザーのことを色々と配慮してあげた結果、色んな機能がゴチャゴチャ入ってて使い勝手が悪いけど、どんな機能でも入ってるから便利といえば便利な製品ができてしまったのではないか、と思います。そしてその結果、値段も高くなってしまう。
このように他者への配慮、気遣いという国民性のもと生まれたのがガラパゴス携帯ではないのでしょうか?
逆にiPhoneを開発したのは、アメリカ人のスティーブ・ジョブス。
こちらもよく聞く話として開発者であるジョブスが「自分は世界一で斬新な携帯電話を作ろうと思ったわけじゃない。自分が使いたいと思う、理想的な携帯を作っただけだ」という趣旨のコメントをしたと言われています。「俺が使いたいような革新的な携帯なら、お前たちにも使い勝手がいいんじゃないか?」というような、ある種の強引さが見てとれるように思えます。
アメリカ人は多様性のある社会で生きてきたために自己主張とその背後にあるロジック性が大事にされています。もちろん相手の主張や立場に気を使ったりもしますが、自分の主張(とその背後にあるロジック)に絶対の自信があるからこそ、相手の主張に引きずられずに多少強引な押し出しができるのではないかと思います。
ガラパゴス携帯とiPhoneの決定的な差異はこの点にあると思います。
自分達の主張である製品に絶対的な自信を持ちそれをごり押しした結果のiPhoneと、自分達の主張である製品自体をユーザーの多種多様な主張に沿わせたものとしたその集合体としてのガラパゴス携帯。
日本人の配慮や気遣いは美徳に値するものだと誇りを持って言うことはできると思います。ただし、現在のように自身の主張なくして相手への配慮ばかりを優先させてしまっては”次のiPhone”は作れないでしょう。
自分達の主張もちゃんと大事にしていきつつ、相手への配慮も適度な範囲でできる様になるともっといい製品開発やサービスのあり方につながっていくのではないでしょうか?
自分達の主張もちゃんと大事にしていきつつ、相手への配慮も適度な範囲でできる様になるともっといい製品開発やサービスのあり方につながっていくのではないでしょうか?
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