毎日続けるというとネタの豊富さが大事になりますよね。
それなりに毎日本を読んでいるので、その知見を活かそうと思うのですがなかなか難しい。
1日1冊とはかなりシビアに読書して行かないと、学校にバイトに学生団体に遊びに(ちゃんと遊びもしますよ!)・・・多忙な生活の中では後回しにしてしまいかねないですよね。
タイムマネジメントが非常に大切だな、と改めて実感しました。
さて、今日は読書からではなく、
最近巷でよく言われる「意識高い学生(笑)」について、その見方に対する個人の意見と特に「意識高い」と言って他と差別化してしまおうという見方の中に見る対立構造に目を向けて、世間的に見たら「意識高い」側の自分の立場から考えてみたいと思います。
就活スラング「意識の高い学生www」たちの残念行動13パターン
http://www.news-postseven.com/archives/20110818_28689.html
就活 「意識の高い学生w」はもはや大学では公害で人害と識者
http://www.news-postseven.com/archives/20120527_110358.html
’意識高い’って何?
僕はこの’意識高い’って言葉に非常に違和感を感じます。
なぜかというと、別に格段いわゆる普通の学生と比べて意識高くなってやろうぜ(えっへん)的なことは何も思わず、ただ単に自分がやりたいことをやっているだけだからです。
正直言うと、いわゆる普通の学生の「テニスしたい」ってのと、自分の「起業したい、国際協力したい」ってのは何も変わらないからです。
「テニスしたい、テニスうまくなりたい学生」だったら何をしますか?
まずテニスサークル入りますよね。
テニスのトレーニング本買ったり、友達に聞いたり、サークルだけでなく大人も交えたテニス講習会に参加したり、他大学のテニスサークルと試合したり、そこで友達作ったり・・・しますよね。
これって、意識高い学生にも全く同じなんですよ。
自分がしたいことをするために、
まず同じ志を持ったコミュニティを見つけ(学生団体だったり、NPO団体だったり、私塾だったり)、読書して勉強したり、友達とディスカッションしたり、外部のセミナーに参加したり、志を同じくする仲間が集まる交流会に参加してみたり・・・
どうでしょう?
全く同じじゃありません?
意識高い学生と呼ばれる自分から見ると、別に格別なことをしているわけじゃないんです。
いわゆる普通の学生と同じように、何かをしたがり、その何かを達成するためにふさわしい努力をして、何かを通じていろんな人と出会っていく。
自分の欲求をふさわしい形で実行しているだけなんです。
なのに、世間は「意識高い学生」と差別して見たがる。
では、なんでわざわざ「意識高い」と呼んで、差別化したがるのか?
そこにこの議論の本質が隠れていると思います。
対立構造にみる精神不安
正直「意識高い」とかそうじゃないって穿った見方をしているのは世間の見方そのものなのです。
テニスしたいも起業したいも国際協力したいも、それはただの欲求でしかなく、それを解釈し意味付けを与えているのは、個人であり個人の集合による世間なのです。
では個人と世間が、「意識高い」といって差別化したがるのはなぜだろう?
それにはいわゆる「普通の学生」「普通の学生生活を送ってきた現在社会人」からの一種の嫉妬や不安感があると思います。
同じ大学生の人たちに「起業したい」「国際協力したい」と言って色んな活動に手を伸ばしている人たちがいます。
かたや自分はテニスしかしていないと、本来等価値であるはずなのに、「意識高い」と言われる学生の方がよりピックアップされ話題になりやすいために、いわゆる「普通の学生」は劣等感や無意識の嫉妬やテニスしかしていない自分への不安を感じてしまっていると思います。
「普通の学生」は、「意識高い学生」を意識すると無意識の内にすごく精神的に不安になっているんです。
そこで精神的な落ち着きを得るためにどうしたらいいのか?
答えは自分を正当化すること。
「意識高い学生」のアラ探しをし、ちょっとの過ちやちょっとの失礼をみつけたらここぞとばかり「これだから意識高い(笑)学生は」と騒ぎ立てる。
そして「意識高い学生」のほうが、より世間に触れる機会が多いため過失や失礼な言動などがめにつきやすい。
そこには、片方(意識高い学生)を悪にしてしまえば、残った片方(普通の学生)は善である、という単純な構造に落とし込んで、自分たちの正当性を確立しようとしているように思えます。
そしてこういう構造に落としてしまえば、格段に意識高くない自分への逃げ道にもい言い訳にもなります。
この構造には現在学生の人だけでなく、今は社会人になっている学生だった人も、この構造づくりに加担しています。自分が学生だったときは・・・と思い返し、現在の学生の多様化に羨望を持ちつつも嫉妬しているんです。
その結果が、世間全体で見る「意識高い(笑)」構造の確立。
先程も述べたように、善でも悪でもない個人の欲求を、自分たちの都合のいいように解釈し意味付けを与えた結果、現在のような「意識高い学生」に対する見方が生まれたのだと思います。
和解するにはどうしたら?
正直、「意識高い学生」=悪、「普通の学生」=善という構造には建設性がありません。
意識高い学生は普通の学生と比べて自分を正当化したがるし、
普通の学生は意識高い学生と比べて自分を正当化したがる。
はじめに述べたとおり、両方等価値であり対立しいがみ合う意味はありません。
でもそれを阻んでいるのは、お互いがお互いに対する不理解とその結果生じる精神的不安です。
まずはお互いがお互いに等価値の欲求を持ち、活動しているにすぎないという認識を持ち、お互いに自分たちにとって心地いい世界にこもらず、お互いに積極的に交わっていくという、謙虚な姿勢が大切なのではないでしょか?
お互いの欲求や活動が等価値であると認識できれば、お互いの違いに不安になることもないし、いがみ合う必要もなくなる。
むしろ、お互いの価値観を認めオープンにしていくことで、対極にあるような2つの学生生活の両方を垣間見ることができ、お互いにとっていい刺激になるのではないか、と思うんです。
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さて最近、意識高い(笑)と言われることに疑問を持っていたので、意見をまとめてみたけど、やっぱり自分自身も不十分だなと感じる。
周りの学生に対してオープンかといわれると、価値観の違いに少し壁を感じてしまっているし、(笑)と言われるような残念な言動をしてしまっていることもあるだろう。
まずは、自分自身から「意識高い」と言われるだけの責任を感じ、、「意識高い」に見合っただけの自分づくりをしていきたいです!
注)この記事の中でテニスを取り上げたのは、ただ単に世間でいう「普通の学生」のイメージに近いのがテニスサークルの学生ではないかと思うからです。僕自身も一時期いわゆる普通の学生生活をしたいと思ってテニスサークルに入っていた時期もあります。
だからテニスに対して特別穿った見方をしているわけではないし、テニスをしている人の中にもいわゆる意識の高い人はいる、ということを一言付け加えさせてもらいます。
また今回のテーマである意識高い(笑)学生について、
AS I Am【経営学×キャリアデザイン】 毎朝8時の”使える経営学”
「意識高い学生は本当に有害なのか?」
http://value-design.net/wordpress/?author=1
は非常に勉強になり心に響いたので紹介させてもらいます。
この方にお会いしたことはないんですが、「起業家」というキーワードで調べブログをみつけてから、ほぼ毎回読ませてもらっています。
自分の勉強になるだけでなく、一人の人間として見習いたい部分が非常にあります。
気になった方、この方のブログをぜひ一度読んでみてください。
今日も読んでいただきありがとうございました!
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