2014年4月15日火曜日

学歴より”学習歴”が問われる時代~MOOCを考える~【2014-No.27】

こんばんは。
Shunichiroです 。

さて、ふとTVを見ていてMOOC(無料オンライン大学)の特集をやっていたので、ちょっとMOOCについて考えていきたいと思います。

MOOCとは、
Massive open online course (MOOC) は、WEB上で無料で参加可能な大規模講義のことである。おもにアメリカ大学で運営されており、基本的に無料で参加することができる。各種アプリケーションが開発されており、ビデオ講義を受けるだけでなく、知識確認のための試験問題などを受けることができる。また参加者のユーザーコミュニティーも用意されており、コース運営側にも有益なフィードバックがかえるため講義運営の効率も向上している。そのため参加者が多いほど効果的な運用が可能となる。MOOC関連WEB技術の進歩と、参加者の増加による運営コミュニケーションの発達という二つの要因により、急激に発展している。(*ウィキペディアより、http://ja.wikipedia.org/wiki/Massive_open_online_course
ということですが、例えばハーバード大学、MIT、スタンフォード大学やなどの講義を無料でネット上で見て、学ぶことができると言うものですね。しかも、その講義を受講したことを証明する、修了書なども発行しているそうです。

このTV番組では、新しく始まった日本のMOOC、gacco(http://gacco.org/)等も紹介しながら、MOOCについて解説するモノだったのですが、その中でも非常に印象に残った言葉がありまして、「学歴ではなく“学習歴”が問われる時代になる」というものです。

というのも、MOOCで発行されている修了書は、その“大学”を出たというものでは全くなく、「その大学のその授業において以下のような成績を修めて修了しました」というものになっています。日本のように「ただ単に授業に出ていた」ことを証明するものとは全く異なり、その講義で何を修め、どんな成績をとったか?が大事にされているのです。TV番組の中では、あるIT企業がMOOCでのプログラミングの講義成績をもとに、一番優秀な成績を修めたものを採用したという事例も紹介されていました。


今まで(特に日本では)、どこの大学を出たか?という学歴が重視されていました。しかし、MOOCによるこのような流れを見ていると、今後は「どこの大学のどんな講座でどんな成績を修めたか?」といった形で、大学での学びがどんどん細分化されていき、まさにピンポイントの“学習歴”が大事になっていくのではないか?と思えてきます。いずれ、履歴書に〇〇大学卒ではなく、「〇〇大学××講座△△点、・・・」と書く時代が来るのかもしれません。MOOCには、まさに、学びの意味が変わっていくようなインパクトを与える可能性があるように感じさせられます。

今後もMOOCについて注目していきたいな、と思います。


Shunichiro


◆読書メモ
・フリー経済学
→フリーミアムとはすなわち「損して得取れ」ということだと。めちゃめちゃ腑に落ちた(笑)。そこで、どこでどう損して、その代わりどこでどうお金を得るのか?といった設計が大事。世界が限界費用が0のモデルにシフトしていく。フリーミアムによって、有形無形を問わず、さらに消費が加速されていく。Googleは現代のパノプティコンといった言葉が非常に印象に残った。損して得取れ。

・考える力をつけるための「読む」技術:妹尾堅一郎
→文章の背後にあるコンテクスト(=著者の経歴、立場etc)、その文章を伝えたい理由、構造、データの裏にある意図など文章を読む際に気をつけることやより深く考えるための「読み方」について考えさせられた。また本を読むときなども、一読したあと(あるいは読みながら)自分で再構成してみる→批判するというプロセスが大事。要は、目の前の文章そのものより、その裏にある構造などもっとメタな視点を持つことが大事かと理解。

・新興国マーケット進出戦略-制度のすき間を攻める-:タルン・カナ、クリシュナ・G・パレブ
→情報が非対称で、また非効率な市場が多い。そのようなすき間をこそ狙っていく。すき間を狙っていくに当たって、色んなパートナーと手を組むことも有益。そのような流れの上流を抑え、すき間に手を伸ばしていき、市場自体を形成、支配していく。だいたいそんな感じ。


2014年4月12日土曜日

4月①Perspectives【2014-No.26】

こんにちは。
Shunichiroです。

普段収集している雑多な情報や読書メモについて、前の記事では本文の後に書いていたりしたのですが、相変わらずスタイルが決まりませんね。今回からPerspectivesという形で記事にしていきます。もちろんけっこう気まぐれなので、本文の後に書くときもあるし、このように別記事として取り扱う時もあるし、、、みたいな形になりますが、ご了承くださいませ。



「2013年の世界のODAは過去最高の13兆円、アフリカ向けは5.6%減少」
http://dev-media.blogspot.jp/2014/04/2013oda1356.html?m=1
「アフリカの伝統技術と最先端デザインのコラボ?エシカルファッションとアフリカの可能性を探るトークイベント」
http://beyondthenexus.com/ethical-fashion-initiative-event/
→個人的には意識にフォーカスするって言うのは嫌いなんですよね~。意識の高い個人や意識の社会というのは当然のことながら求められているものはあると思うし、究極的には絶対に必要だと思います。でもそうでない世界やそうできない事情もあると思うんですよね。それに人の意識を変えるなんて、簡単じゃない。本質的に深い部分での意識の変化を促すなんて、非常に長期的でまた継続的な仕組みが必要だと思うんです。意識へのアプローチって非常に不安定だと思っています。
だから、二つ目の記事のような考え方ってすごく好きなんですよ。「社会的にいいことしてるから買ってください」なんて通用しない。そこではなく、その商品の持つ純粋で本来的な経済価値としてそれが認められることが必要だと思うんですよね。そしたら、たまたまそれはフェアトレードの商品だったみたいな。
善意や社会滝意識の高さを越えた、経済的合理性を追求できる、そういう考え方をもった人たちがこの界隈にも増えたらいいなって思います。


「ケニアで始まった携帯送金サービスが欧州で展開開始」
http://wired.jp/2014/04/10/money-transfer-system/
→とうとうきましたか。まさにリバースイノベーションですよね。きっと今後の社会はあらゆるサービスなどが携帯電話を介して行われていくのではないかとさえ思っています。このようなイノベーションが普及していく中で、どう広がっていくか?その際の社会の意識や法制度などがどう変わっていくのか?どんな抵抗がなされ、どんな主張がされるか?どんな対応がとられるか?その点を見比べていくと面白いんじゃないかと思っています。

「色。社会。再認識。〜カラーハンティング展とデザインという行為」
http://beyondthenexus.com/the-future-through-colors/
→カラーという観点から社会を見るという見方は今までなかったので、非常に面白い視点だなと感じています。やっぱりデザインには可能性がありますね。

「UNESCOユースフォーラムに日本代表として参加して感じた3つのこと」
http://beyondthenexus.com/3-things-from-unesco-youth-forum/
→領域を越えたファシリテーションの必要性、という言葉が非常に面白いですね。ぼんやりと思うのは、もうコンサルタントの時代じゃないんじゃないかってことですね。コンサルタントのような問題解決の思考を持ち、かつそれを鮮やかに表現するデザイナー。いまその場にいる人の力を最大限引き出すコーチングやその場の議論の可能性を引き出すファシリテーター。
第3者ではなく、当事者から。
与えるのではなく、引き出す。
そしてそこに存在する鮮やかさ、美しさ。
そういった能力、または個人が今後求められているような気がします。

「日本の大学は起業や投資のエコシステムに積極的に関わっていくべきだと思う。」
http://beyondthenexus.com/university-should-dive-into-startup-ecosystem/
→色々縁があって、起業家教育関連にも携わらせてもらっているのですが、よく言われますよね。大学のアントレプレナーシップ教育をふくめ、投資家や企業、メンターなどなど、ただの1プログラムを越えて、“エコシステム”を形成することが大事だと言うことですね。やはりその旗振りの役目は大学だと思うし、社会に対して、ただ単に高等教育を受けた人材を輩出すると言う役を越えて、そういう役割を担っていくことも考えていきたい部分です。


Shunichiro

SNSコミュニケーションに見る情報蓄積・ノウハウ蓄積への懸念【2014-No.25】

こんにちは。
Shunichiroです。

最近日中は汗ばむほど暖かいのに、夜は寒いくらいに冷え込んで安定しない日々です。服装や体調管理が大変ですね。


さて、最近団体での仕事のやり取りなどもSNS(LINE)を中心に行うことが増えてきました。SNSの手軽さは非常によく、またそのためメンバーからもそれを推奨されて使っているのですが、個人的には非常に使いづらいんですよね~。

というのも、まあ、そもそもメーリス世代ということでメーリスのプロトコルから脱却できていないのはあります(ジェネレーションギャップですかね?笑)。しかし、それ以上に、あのあまりにも早くタイムラインが流れ去る感じが非常に嫌なのですよ。今何の議題なのか?やなにが論点になっているのか?などどんどん流れて行ってしまい、固定性がないんですよね。非常に流動的。少し前の議論を見ようと思ったときは、延々とタイムラインをさかのぼらないといけない、、、


SNSは本来はただのコミュニケーションツールにしか過ぎなくて、ビジネスなどに向いたツールではないと思うんですよね。流れ去るタイムラインの中では、情報の蓄積やノウハウの蓄積もされず、当事者たちの記憶頼みになる。途中から入ってきた人はそれ以前のタイムラインを見れないから0スタートになる。

友人同士のコミュニケーションならそれでもいいのですが、こと仕事関係においてSNSを用いるのは問題があるように感じています。なにかいい方法はないものでしょうか?


また、仕事におけるSNSの立ち位置と情報共有とは別に、昨今の人々の中にある即時性というか現在性というのをなんとなく考えています。

先ほどのSNSの例にもあったように、まさに今この瞬間のコミュニケーションが大事にされ、蓄積されることや後から振り返ることを考えられていません。膨大に流れ去る情報の、今この瞬間のみへのフォーカスがあるように感じられるんですね。きっとそれは今の子(僕も世間から見たら今の子なのでしょうが、、、)達の間でも無意識の中に多分あって、無意識のうちに現在のみのコミュニケーションに心を奪われているように思います。

それがどんな問題をはらむのか?問題ですらないのか?はわかりません。
これだけ早く移ろいゆく世界の中では過去に振り返る暇などなく、今だけに集中することが求められているのかもしれません。でも私の懸念としては、その結果近視眼な人々を量産し、また適切な情報蓄積がなされず、過去に学ぶということ自体が消えていってしまうのではないかと思います。

(その分ビックデータといった他の形での情報蓄積はあるかもしれません。そういう点から見たら、意識的な情報蓄積、意識的な次の世代への継承がなくなったという見方ができるかもしれません。)


今後ビジネス向けにも使い勝手のよいSNSのようなものもできるかもしれませんが、情報蓄積や情報の継承という点には気をつけながら活動を進めていけたらな、と思います。そして、上記したような現代人の即時性の裏に潜む考え方や価値観、社会への影響などもう少し深堀していきたいなと思います。


Shunichiro

2014年4月10日木曜日

小保方さん騒動を考える~研究、プロセス、科学技術政策の観点から~【2014-No.24】*2014/04/12追記

こんにちは。
Shunichiroです。

突然ではありますが、最近若返ってきている気がします(笑)詳しくはお話しできないのですが、気持ちの面で非常に新しい刺激があり、若い感性を刺激されてる気がします(笑)いついかなる時でも若い気持ちのままでいたいですね。


さて、テレビなどで非常に話題になっているSTAP細胞に関する小保方さんの騒動を考えてみたいと思います。自分自身勉強中の身ですし、卒論の一つも未だ書いていない学生のため、非常に恐縮ではありますが、色んな記事を見て感じた事などを書いていきたいと思います。

まずこの問題に関して、世間の論点は「ねつ造か否か?」という部分に集中していると思いますが、この問題の論点はそこだけではなく、
①研究そのものについて
②研究承認(公表?)のプロセス
③科学技術政策
の観点があると思われます。


①研究そのものについて
まず、研究そのものに関する議論があると思っています。この点が世間が関心を持っている、ねつ造の話やSTAP細胞の有無といった話しになると思っています。

研究の在り方として、ねつ造の存在やずさんな研究の在り方は非常に問題があると思っています。その点は追求されてよい部分だと思います。しかし、次の論点に関わる部分では在りますが、そのずさんな研究が機関内の承認?を通ってしまったことやネイチャー誌の査読が通ってしまったことにも問題はあると思います。

またSTAP細胞の有無に関しては、科学的な検証を待つ以外ないでしょう。


②研究承認(公表?)のプロセス
STAP細胞に関して公表する前に、まず機関内の承認や何かしらの情報共有プロセスというのはあるのでしょうか?機関による査読などを経て正式に発表されているのに、ねつ造が見つかったということであれば、それは個人の問題だけに帰結させられる問題ではなく組織の問題ともいえるのではないかと傍目には思ってしまいます。今回の騒動に関しては、組織の問題として扱わず、個人の問題に世間の目を収斂させて組織への責任追及を避けているように思えてしまいます。

ねつ造や研究者の倫理観を保つために、ピアレビューや査読といったシステムがあるはずなのに、それが機能していないとあれば、個人の倫理観うんぬんより、システムそのものの問題の方が追求・議論すべきポイントになると思うのですが、その点に関してはいかがなのでしょうか?


③科学技術政策として扱う問題では?
一時期「科学技術政策イノベーション」という授業をとっていたので、この観点から考えさせられたのですが、日本は国内から生れた(生まれるかもしれない)先端技術に関してどういう態度をとっていくのでしょうか?すでに技術力は国の行方、産業の在り方を決めていく大きなファクターとなっていて、どうやってイノベーションを起こすかどの国も必死になって取り組んでいる中で、今回の騒動によりSTAP細胞に対する研究の目が摘まれてしまわないか心配になります。

また今回に限らず、日本の中で生まれた新しい可能性が、ねつ造だとかなんとかという部分で足を引っ張られ、可能性をつぶしてしまうことは非常に大きく国益を損なう行為なのではないかと思います。

昔から、出る杭は打つという文化の日本ですが、今回の一件だけで日本の中でのイノベーションに対する見方と対応を垣間見ることが出来るし、どんなに施設や設備などが整っていても正直科学者として日本では生きたくないなとさえ思ってしまいました。



僭越ながら私のご意見を述べさせてもらいましたが、私が読ませてもらいました先達方々の記事も合わせてお読みいただけたら幸いに思います。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2233.html
https://m.facebook.com/tomtakei/posts/769799709705979?refsrc=https%3A%2F%2Fm.facebook.com%2Ftomtakei%2Fposts%2F769799709705979&refid=9&_rdr#_=_
http://blogos.com/article/84169/
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/52007102.html



Shunichiro



*2014年4月12日追記
もう少し考えてみると、他にも観点があるんじゃないか?と思います。
①個人の研究の在りかた(ねつ造などの問題)
②研究成果そのものについて(STAP細胞の有無など)
③研究プロセス(査読などのシステムの不備、欠陥)
④組織の在り方(責任の在り方、所在、組織の姿勢)
⑤マスメディアの報道の在り方(より大きな問題への追求ではなく、個人の追求に落としめてしまったこと)
⑥日本における科学技術政策の在り方
⑦日本人の国民性(民度?)
それぞれ連関している部分もありますが、これだけの観点が含まれていて非常に複雑で奥深い問題ではあるのですが、結局小保方さん個人の問題のように扱われていった世間の在り方、メディアの在り方には非常に問題を感じますね。


2014年4月9日水曜日

自然体の自分を受け入れる【2014-No.23】

こんにちは。
Shunichiroです。

先週末の寒さもどこ吹く風、最近非常に暖かくなってきましたね。早くも桜も満開になり、葉桜も見せ始めてくる木も見かけるようになりました。この時期には毎年恒例で花見に行っているのですが、今年まだ行っていないので散ってしまう前に行くタイミングがあるといいな、って思っています。


最近後輩の子とよく話したりしていて「自然体でいいよ~」なんて適当なこと言ったりしているのですが、そんな自分になんでだろう?って少し疑問に思っています。まあ、もともとけっこう適当な人間だってことはあるのですが、それ以上にある種の達観のようなものもあって、それってなんでだろうな~って思ってしまうわけです。

しかも、自分自身達観感を感じているくせに、最近なぜか中2病かのように頭を離れないものなんかもあったりして、25歳にもなってなんなんやろ~って思っています。


いつから自分自身がここまで緩くなったのかとか考えると、多分去年一年間自分自身無理して大きく見せようとしていたり、あるいは自分自身を見失っていたな~とか思うところがあったからだと思うんですよね。

去年のブログにも書いているんですけど、去年の自分はものすごい成長したいドライブに駆られていて一秒たりとも逃さず勉強したりひたすらインプットしたりしてたのですが、結局そんなもの陽炎だと気づかされるきっかけもあり、また自分自身が目の前の人生楽しんでなかったな~って思ったりしたからなのかな~って思います。


だから周りの子を見ていて、なんとなく無理してるな~とか自分を見失ってるんじゃないか?とか目の前の人生を楽しんでるのかな?みたいなものがふと考えさせられたりするんですね。


自分の感覚としては、本当に単純で自分自身に素直になることかなって思っています。それが自然体の自分につながるんじゃないかって。いま目の前にいる自分が、めちゃくちゃ成長したかったらそれに身を任せばいいと思うし、遊びたかったら思い切り遊べばいいし、甘えたかったら甘えてもいい、そんな風に思ってるんですね。

なにより、自分自身が目の前の人生を楽しむことが一番。
その時の自分が何を感じ何を求めどんな姿を目指していても、それが本当に自分が求めていきたい自分の心の本心であれば、その通り素直になってその時その時の自分を大切にして、そして目の前の人生を楽しんでほしいなって思います。


なんか、あまり脈絡のない文章になってしまった感がありますが、要は自分自身も25歳とか言う年齢なんかも気にせず、いま自分が感じているものや抱いている感情に素直になって、心のままに身を任せてしまってもいいのかな、って感じですね。


人生、自然体で、目の前のことを思い切り楽しむ。
常にそういう心づもりで生きていきたいと思います。


Shunichiro



◆読書メモ
「シリアル・イノベーター」
→シリアル・イノベーターは製品ではなく、顧客の課題を気にしている。顧客の課題に関して、あるゆる角度から分析を試みている。その結果、従来にない新しい解決策を見いだす。イノベーションを生み出していくための示唆が豊富に感じられた。
他にも色々気になった言説は在るのですが、現在手元に本ないのでまた後日詳しく書きます。

・「プロデュース100の心得」
→自分の心の中での最大のメンター、平野暁臣さんの新刊。発売後速攻買ってしまった(笑)。リーダーシップの在り方について少々悩んでいたので、原点回帰というか改めて大事なことに気づかされた。マネジメントするのではなく、引き出す。トップダウンのプロジェクトではなく、ボトムアップのクリエイティブなプロジェクト。自分自身とプロジェクトを再度見つめ直してみたい。




現場を持たない自分にモヤモヤ【2014-No.22】

こんばんは。
Shunchiroです。

最近色々なご縁があって、新しい団体の創設を行っているのですが、リーダーシップの在り方について考えさせられます。かなり個性的なメンバーが多い中で、意見をまとめていくのが大変で、コンセプトベースのレベルでずっと行ったり来たりしています。あえて、自分の中の今までのリーダーシップ観をぶち壊して、まったく新しい方法を試そうかとも考え中です。日々成長ですね。



さて、今日は最近すこし考えていることを書こうかなって思います。
それは、現場を持たない自分の国際協力の在り方ですね。(まあ、国際協力って言うワードも使いたくないんですが、それ以外に適切な言葉がないので、、、)

国際協力活動って、多くが自分なりの現場を持ってそこに対する支援を行いながら、色々模索しながら、、、って形が多いと思うんですよね。でも、その中でも私は特定の現場をもたずに、学問的・概念的な部分で国際協力を語っている。

全員が全員現場に関わる必要はないと思うし、私自身色々考えた末に現在の在り方を選択しているのですが、やはり現場の泥臭い話などを聞くと、理論や学問では落としこめないドロドロしたリアルな世界が垣間見えてしまうんですよね。それにやはりそういった自分の現場をもっている人の言葉って、重みが違うし、その背後にある奥深い覚悟などもかんじられる。それと比べると、現場を持たずに概念でしか語ることのできない自分って甘っちょろいのかななんて思ってしまいます。


現時点の私の判断としては、現場に対する深い責任なんて負えないし、現場というローカルにインパクトを与えるだけでは大きな動きにつながらないし、一人で行動するには限界がある。国際協力活動というものをもっともっと広く、そして普遍的なインパクトを与えてるものにしていきたいし、他の人にも参加できるようなものにしたい。だから、私は支援ではなく、ビジネス=商品あるいはサービスという手段を取るし、それを通じたシステムの構築と、学問的概念の提唱を目指している。

でも、ビジネスという手段に置いても現場というものは存在するし、現場に置いては自分が構築したようなモデルやフレームワークなんて通用しない、もっと泥臭いモノかもしれない。そういう意味においては、自らも現場をもちつつ、現場の泥臭さも反映させたモデルやシステムを構築するべきだと思う。そしたら、やっぱり今からでも現場を持ちつつ、実際に貧困層と向き合いながら、製品の開発から理論の構築からやるべきなのか?とも思えてくる。


現状においては、自ら現場という選択肢を捨て、客観的視点からの理論やモデル、システムを考えることを選択したのだが、現場を持つことでそれがただの机上の空論に終わらない地に足のついたものを考えることができるのかもしれない。でもそれが自分には可能なのか?今の自分にとっては、現場を持つほどの覚悟が持てていない。金銭的障壁を理由にしながら、現場をもつことから逃げているのかもしれない。

そもそも現場って持とうと思って持つものだろうか?関わっていく中でなにかしら自分の中に使命感?みたいなものが生まれ(あるいは愛着等もあるかもしれない)、その帰結としてそこがその人の現場になっていくというものではないかとも思う。だからそもそも「現場を持つ」ってどういうことなんだろう?目の前に実際に支援者(あるいは自分の活動の何らかの対象)がいるってことなんだろうか?それともただそこに友人、あるいは大切な人と呼べるような人たちがいるってことなのかもしれない。


自分自身「モヤモヤなんてしてるな」とか言いつつ、この状況。
現状自分にできることは、現場の泥臭さをイメージ(あくまでイメージでしかない)しながら、理論に励むということに加えて、どこかのタイミングで覚悟を決めて現場に飛び込んでいくということなのだと割り切るしかない。現場というものにアンテナを張りつつ、今まで以上に泥臭い部分というものをかんがえてみたい。



Shunichiro


◆思考メモ
「処女とセックスすると、HIVが治る?誤った信仰がマラウイ少女へのレイプを増やす」
http://dev-media.blogspot.jp/2014/02/hiv.html?m=1
「レイプにおびえるソマリア女性たち」
http://dev-media.blogspot.jp/2014/02/blog-post_26.html?m=1
→HIVって保健衛生とか教育分野で語られることが多いと思うけど、この記事読むとそれだけでは全く語れないなって思う。少なくとも、保健衛生・教育・ジェンダー・宗教・コミュニティ・政治・法制度・文化・雇用、、、色んな観点が複雑に絡み合っているのがわかる。対症療法で、現在問題が生じているところに対策をするのは必要だと思うけど、根本的に解決するためには何をする必要があるだろうか?それとも特効薬なんて存在しないから、同時進行的に複数の施策を実施しながら解決を図るべきだろうか。いずれにせよ、もっともっと複合的で総合的な視点が求められていると感じる。
(だから私は、システム思考やソーシャルデザインといった複合的な視点からの解決策を考えることができるメソッドに着目している。特に慶応のシステム×デザイン×マネジメントの視点には可能性を感じている。)

髪は女の命? アジア人の髪を盗む泥棒もいる
http://dev-media.blogspot.jp/2014/03/de5.html
→上と同じく開発メディアganazの記事ではあるが、この中で紹介されている
「食べていくことがもちろん、生活の中で一番大事。でもその次に着飾ることを大切にしているわ。貧しい気持ちで生きたくないじゃない。貧しさから少しでも気を紛らわすためにおしゃれをするのよ。貧しい気持ちになるときこそ、精一杯おしゃれをするの!」

との考え方には少し違和感。
確かに気持ちの面からでも、前向きになることは大事だし、たとえ貧しくても自身の尊厳を保つことは大事だろう。でもそれは少ない収入から絞り出す、おしゃれというところでいいのだろうか?男性の視点にすぎないかもしれないが、心の尊厳を持てていれば、最低限の身だしなみでも我慢できるように思える。でも、もしかしたら女性にとっての最低限の部分がそのラインということかもしれないが、、、でもわずかながらの収入をそこに費やしてしまうのはいかがなものだろうか?おしゃれへの投資がどこまで自分自身を高めることにつながっているだろうか?短期的な尊厳を保てても、その分長期的な可能性は損なっているのかもしれないのに、、、
女性からの意見を聞いてみたい。

「ウガンダとマラウイ、同性愛への対応が真逆だったのはなぜか?」
http://dev-media.blogspot.jp/2014/03/blog-post_25.html
→タイトルとしては同性愛だけど、その対応の裏に存在している社会構造って実に根深いものだな~って感じる。本来自立のために援助しているはずなのに、援助依存の社会構造を生み出してしまっているのも問題だけど、さらにはその社会構造のせいで途上国自身の選択の自由が奪われてしまっている。こういう構造を見てしまうと、援助の意味自体を考えさせられる。非常にうがった見方ではあるが、欧米(ドナー国)のおもちゃにされるために途上国は援助されているのかと、、、「援助じゃアフリカは発展しない」ではないが、根本的に援助(いわゆる開発援助とよばれるもの)が世界に存在していなかったら、この世界はいまどんなものになっていただろうか??



◆読書メモ
・「アフリカ!」
→上記現場を持たないことへのモヤモヤを感じさせられた。泥臭さも破傷風も下痢もスリも嘘つきも、、、すべて存在しているのが現場だと思う。いくら理論が優れていても、そういったもの全てを乗り越えていかないと結局成功もなにもない。でも理論では、そこの突破を補うことはできない。あくまでその現場にいる人がもがき喘いでなんとか実行していくもの。そういった現実をも加味されたものははたして理論にとって可能なのか?それとも、そういった現実をも加味されたものは理論には到達不可能なのか?改めて考えさせられる。

・「リーディング3.0」
→内容自体は、スマホやクラウド、電子書籍を使いながら効率的な読書を、、、とのことだが、それ以上にクラウドへのアクセスが可能になったことで、同時進行のパラレルの人生を歩めるようになったのだという気づきの方が収穫。クラウドがなかったら、自分がアクセス可能な固有の場所にしか自身を存在させることができなかったが、クラウドが生まれたことにより、自身の存在が固有の場所にしばられることがなくなり、どこの場所にいてもクラウドを介してシームレスに自分を存在させることが可能になった。その結果、ノマドやパラレルキャリアな働き方・人生を選択できるようになった。そんなことを考えさせれた。

・「ナレッジサイエンス」
→あらゆる角度から「知識」というものを解体しようとしている本。書籍中では、81の概念や言葉、理論などに触れている。いままで暗黙知として存在し、客観的に理解することができなかったものが、時代の進化とともに解体可能なものになりつつある。「知識」というものそのものへの理解を深めておくことで、知識の習得や活用がもっと効率的になるかもしれない。
でもさすがに81もの観点からの分析を読みこむのは、しんどかった。


2014年4月6日日曜日

ちぇかふぇを終えて④~国際協力という分野の更新速度~【2014-No.21】

こんにちは。
Shunichiroです。

さて、連続の記事ではありますが、さきほど書き忘れていたことを書きます。
現在社会人の方と、BoPビジネスやマイクロファイナンスなどの途上国界隈に関連する勉強会を開催していく企画をしています。第一回は4/27@天満橋にて、マイクロファイナンスの現在と展望について話し合う勉強会を企画しています。お時間ある方ぜひご参加いただけたら幸いに思います。

それといつもは学生と一緒に動いているのですが、社会人の方と一緒に仕事をしていると、また学ぶことや話す内容なども変わってきますね。どちらも違いがあって非常にエキサイティングです(笑)


さて、ちぇかふぇにて考えたことなどを発信してきたのですが、第4回目になるこちらの記事でとりあえずちぇかふぇについては最後にしたいと思います。

②にて「国際協力というワードにおける社会参加性の低さ」、③にて「善意や意識の高さに依存しない、システムという方向性」について考えてきました。その中で私自身が感じるのが、国際「協力という業界の進歩の遅さです。理論や概念における発展の遅さもあるのですが、実際の取り組みにおける発展性やフィードバック性に関しても非常に遅いのではないかと思っています。

何よりも一番最初にこの問題意識を感じたのは、2月のワンワールドフェスティバルにて開発コンサルタントのブースで「40代でもまだ若手」というお話を聞いた時でした。開発コンサルタント業界内でも大事にされている考え方やスキルセットなどがあるのは分かりますが、新卒20代前半から始めても20年でもまだ若手という世界はいかがなものでしょうか?

今やこの世界は5年10年どころか、1年3年といったレベルでどんどん変化しています。20年前には存在しなかった携帯電話やICTが途上国でもどんどん普及しています。携帯電話を用いた金融なども生じており、途上国における発展のスピードやその在り方は私たちの考えをはるかに超えるものだと思います。20年前のいったい誰が、途上国に置いて電話線よりも先に携帯電話が普及するなんて考えたでしょうか?


それだけ劇的に変化していく世界において、国際協力・国際開発という業界がいかに変化に乏しいものなのか考えさせられます。もちろん主要なアクターやインセンティブの違いはあると思いますが、開発に携わる人(研究者も実践者も含め)にとっては、もっともっと新しい概念や考え方を導入しながら挑戦的に野心的に新しい取り組みを進めていくべきではないか?と思っています。

最近はやりのデザインという観点でもいいし、あるいはリーン思考をとりいれたプロセス型のプロジェクトでもいい、またはビジネスモデルキャンパスを開発案件にも取り入れてみるといったものでもいい、フリーミアムやシェア・3Dプリンターを持ち込んでもいい、アートの観点をとりいれてもいい、、

あらゆる概念を総動員しながら、新しい開発のモデルが模索されるべきだと思っています。その中から、ちぇかふぇを終えて③記事で述べたような、善意や意識に頼らないシステムとしての国際協力/国際開発の在り方が生まれる可能性もあると思うし、あるいは現在の私が思い描けていないような全く新しいモデルが考案されるかもしれません。


そういう在り方を目指していけたらな、と思います。


Shunichiro

ちぇかふぇを終えて③~善意や意識を越えたシステムへ~【2014-No.20】

こんにちは。
Shunichiroです。

昨日今日と、もう4月と言うのに寒いですね。
日本には四季があり、季節の変化に敏感というのは、情緒を誘う観点では非常に嬉しいのですが、なにぶん体調管理が難しいですね。新年度も始り、さまざまな行事もある中だと思いますので、体調管理にお気を付けくださいませ。


さて、先日終わりましたちぇかふぇを終えて、筆者が考えたことや思ったことの続きになります。
①では「モヤモヤすることの意味」について、②では「国際協力の社会参加性」という記事を書きました。今日は、②に関連しながら、人の善意や意識に依存した国際協力の在り方について考えていきたいと思います。

ちぇかふぇのWSの中でも、高い意識を持つことの大事さについて言及していくシーンが多くありました。(特にオックスファムの企画では、学生が高い意識を持ち、社会に提言していくことを強く押し出していました。)「貧困を構造から考える」ワークを通して、自分たちの言う「国際協力」の背後にある、より大きな構造を明らかにし、自分たちは学生として誰に何をしてどう変えていくのかというブレストや、「ハンガーバンケット」では会場内を縮小した世界に設定して、高所得層・中所得層・低所得層の置かれた状況を身を持ってシュミレーションしたりしました。

その中では、例えばCSR(企業の社会的責任)の話や「意識の高い消費者」の話しなどが議論され、一人一人に良識ある行動を促すメッセージが出されました。そして、たった1000人の学生の署名により、タリーズコーヒーがフェアトレードの日にはフェアトレードのコーヒーを扱うように動かした事例を取り上げ、小さくても何かアクションを行うことを促していました。



さて、一人一人が意識を変えて小さなことでも何かアクションを起こしていくことは、大事だとは思います。しかし、それだけで本当にこの世界は変わるのでしょうか?この世界の力学を変えられるのでしょうか?

私の意見ですが、人の意識や善意に頼るのは限界があると感じています。たとえ、どんな大きな人数であろうと。人の価値観や考えは移ろいやすく脆いものだと思っています。その時の状況によって、人の価値観も実際に取れる行動も変わってきます。例えば、ある人が寄付を行っていたり、多少高くてもフェアトレードのコーヒーを買っていたり、あるいは実際にNPOや何かで行動していたとしても、もしその人の生活環境や収入あるいは社会情勢が変わってしまった時もその善意ある意識高い行動をとり続けられるでしょうか?

私自身、幸いながら日本という先進国に生まれ、大学に通わせていただけるほど裕福な両親に育てられ、現在縁あって国際的な活動を行っておりますが、もし明日から突然両親からの援助がなくなり、収入もすべて自分で行わなくてはならなくなったとしたら、今のままの活動を続けられるとは到底思いません。募金箱への寄付もしないだろうし、国際的な活動に時間を割いている余裕も、わざわざ電車賃などを払ってまで活動に従事し続けられるとは思いません。

それに人の関心は移り変わるものです。いまは国際的な活動に関心があっても、未来永劫、国際的な活動に関心を持ち続けているのかどうかはわかりません。それはきっと全ての人に共通することだと思います。


先日「ちぇかふぇを終えて②」の記事にて、国際協力を社会参加性の高いものにということを書いたのですが、国際協力を意識の高さや善意で語るのではなく、誰もが参加でき、そしてそこになにかしらポジティブな求めるものがある概念へと進化させる必要があると考えています。すなわち国際協力が「人のポジティブな感情に訴えかけるもの」と「経済的に合理的なもの」の両方を達成するものに変わっていくということですね。

そのため、いわゆる「意識が高く」なくても参加したくなる(ワクワクや期待や希望や楽しさetc)もので、かつ、それをやることが自分にとっても“経済的に意味のある”ものの両方を兼ね備えた、仕組みやスキームあるいは社会システムを構築していく必要があると思っています。

最近話題になっているソーシャルビジネスやBoPビジネス、あるいはSROI(社会的投資効用)といったワードには、そういう(善意と経済的合理性を兼ね備えた新しいシステムになる)可能性を持っていると思います。特にSROI指標などですね。世界で動く個々のビジネスや活動の在り方を規定する指標やフレームワークあるいは国際標準といったものは非常に大きな影響力を持っています。


国際協力が、現在のような善意に頼ったスキームを抜け出し、経済的合理性といった資本主義の力学に直結する新しいアプローチに到達し、システム自体を変えるところまでを見越した動きが生まれるようになると、国際協力という言葉の意味も社会に与える影響性というものも大きく変わっていくと思います。


Shunichiro



◆読書メモ
【直観力:羽生さん】
・経験・視点・精神のトリプルボトムラインを持っていて初めて、直感の有効性が効いてくる。
・直観とは自身の保有するあらゆる暗黙知の結晶として導き出されている
【世界を知る力】
・それぞれが「何を通して」世界をみているか?
・教養=パースペクティブ=自分なりの視点を持っているか?(歴史的背景、文化的背景、トレンドなどを踏まえた複合的な自分なりの世界観)
【読まない力】
・何が語られているか?より、「何が語られていないか?」の視点が大事
・情報には恣意性が必ず存在する
・語られないこと(書かれていないこと)に着目し、独自に調べることで、自分だけの視点や自分だけの情報を仕入れることができる
【貧困の克服】
・あまねく権利を保障する、エンタイトルメント
・↑によって、人々が自らの潜在的能力を発揮することが可能(な環境)になる

2014年4月5日土曜日

ちぇかふぇを終えて②~「国際協力」というワードと、社会参加性~【2014-No.19】

こんにちは。
Shunichiroです。

今日、めっちゃいい天気ですね。
絶好の花見日和でお花見行きたいところですが、ちょうど予定が入っていて残念です。夜時間があれば、夜桜でも見に行こうかな、って思います。


さて、昨日に引き続きちぇかふぇを通して考えたことを、記事にしていきたいと思います。
ちぇかふぇって、「国際協力」がキーワードとなっていて、国際協力活動をやっていたり、あるいは国際協力に興味ある人が来て、みんなで仲良くなって、、、というものだったんですが、個人的に思うのは
・そもそも「国際協力」というワードに魅かれてやってくる層ってどの程度いるのでしょうか?
というところです。またどんなワードにも言えることかもしれませんが、
・「国際協力」というワードを規定することによって、それ以外の層を排除してしまっているのではないか?
というところです。

今回ちぇかふぇには3日間で200名を越える人たちにご来場いただいています。この数字と会場の雰囲気だけ見てると、国際協力に関心があって、みんなの希望が見えてくるように思えてしまいます。

でも、見落としてはいけないのは、国際協力というワードに対して関心をいだく層はそもそもマイナーな人たちであり、今回のちぇかふぇという場もそもそもマイナーで少数な人々同士の内輪の集まりでしかないということだし、国際協力という言葉には全く魅かれない人たちが圧倒的多数だと言うことだと思っています。

「国際協力」というワードで会場に集まった200人が声を上げることで、世界が変わることもありうると思います。しかし、逆に考えると「国際協力」というワードでは、たった200人の意見しかくみ上げることしかできていないとも言うことができます。すなわち、自分が問題意識として思っているのは、「国際協力」というワードの社会参加の可能性の低さという点ですね。より多くの人へのリーチ性というところですね。国際協力というワードには、テーマ、活動、そして意識といった点で求められることが高く、非常に排他的になっているような気がしています。


話しは少し変わって、社会課題の分野においても最近非常に「デザイン」という言葉が注目され、億の人が関心を持ち始めています。いわゆるソーシャルデザインというものですね。イメージの問題ですが、この「デザイン」という言葉には多くの人がわくわくを持てるような響きがあると思っていて、なんとなく参加したくなるものを持っていると思います。先ほどの言葉を使うと、社会参加可能性が高いと考えられます。

そこでソーシャルデザインが優れているなって思うのは、参加する人たち全てが意識高い系というわけでは全くなく、それぞれが「デザイン」とい言葉に求めるなんとなくの楽しさやワクワクや期待や興味から参加しており、でもその成果として、設定テーマとした課題を解決するアイディアが生まれてきているという点にあると思います。


デザインの社会参加性の高さというところを踏まえた上で、国際協力というところに話しを戻すと、国際協力が国際協力というワードを掲げている限り(あるいは国際協力というワードから卒業?脱却?できない限り)、結局今のままの閉じた世界の取り組みに終わってしまうのではないかと思います。

いま国際協力という分野に求められていることは、国際協力を掲げている私たち自身が国際協力というワードの世界を飛び出し、もっと社会参加性の高く、多くの関心や期待を包含できる概念へと進化し、それら多様な関心を結集した結果として、何らかの成果を生み出せるもの(あるいはスキーム?)になっていくことなのではないかと思います。




ちぇかふぇには、国際協力に関心のある多くの人に来ていただけました。
いずれ国際協力というワードだけではなく、もっと色んなワードの関心がありながらも、それらを包含するような大きな旗印としての新しいワードに集まるもっと多様な人たちに参加してもらえるようなものになっていったらいいなって思います。(そして、さらに大きな国際協力という分野においても。。。)




Shunichiro

ちぇかふぇを終えて①~モヤモヤする人、モヤモヤしない人~【2014-No.18】

こんばんは。
Shucnichiroです。

さてさて、新年度が始まって一番最初の金曜日ですね。
facebookを見ていると、新入社員となり、社会人生活が始まった皆さんの色んな熱い思いが書かれた投稿が目立ちます。みんな頑張ってほしいな~っていう応援の気持ちと、出遅れている自分から見た嫉妬ややるせない感が混ざったような複雑な気持ちです。



今年もちぇかふぇが終わってしまいました。
ちぇかふぇとは、そもそもお堅いキーワード「国際協力」について、カフェという場で気楽に話し合うことで、気楽に話し合える仲間、気楽に何かアクションできる仲間を増やしていこう、という試みで去年の第1回目から参加させてもらっています。
今年は去年以上に多くの人に足を運んでもらえたし、またその中で行われたWSも去年以上にレベルの高いものだったと感じています。

今年のちぇかふぇの中でも個人的に感じたことや思ったことを簡単に共有します。
・モヤモヤすることは何のため?
ちぇかふぇのスタッフ自体もそもそも色んな大学・学年・所属の人が集まって、お互い「始めまして」の状態から一緒に作ってきたものになるんですが、段々と仲良くなっていく中で深い話しをしていくとやっぱりそれぞれちぇかふぇに対する見方が違うってこともあるんですね。

あるスタッフの子と話していくうちに段々と深い話になっていってポッと出てきたのが
「モヤモヤすることは何のため?」
って言葉。

確かにちぇかふぇの中でも中心的なメンバーは特に「モヤモヤ族」で、みんななにかしら自分たちで行動しながらも、これで本当にいいのか?どうしたらいいのか?自分は何がしたいのか?ずっとモヤモヤしてる。そもそもそんなモヤモヤ族が、自分のモヤモヤを共有することで自分のモヤモヤを解きほぐすきっかけになるかもしれないし、あるいは他の人のモヤモヤを聞いてあげることでどこか気持ちが楽になるのかもしれない、そんな場を作ろうってことでちぇかふぇが始まってるってこともあって、ちぇかふぇの中では「モヤモヤ」ってワードが頻発してる。

でもその子と話していて出てきたのが、さっきの言葉。
「モヤモヤすることは何のため?」
そして
「モヤモヤするのも大事だけど、結局このちぇかふぇでも楽しんでるように見えない。時には割り切ることも大事だと思うし、モヤモヤしてるだけじゃ何も進まないし、、、ん~なんかもったいない」
って。

この言葉、非常に真を突いてるなって思った。
モヤモヤすることは、自分達の活動や思考の枠に対して盲目的に追従するのではなく、疑問を抱きながら、(意識的かどうかはさておき)ある種の批判的目線で行動することができている証拠と言える。しかし、モヤモヤしてるってことは自分の中での疑問や問題意識が曖昧だからって見ることができて、問題意識が曖昧だから行動に移せない。そのためか、見ている限り、、モヤモヤしてる人たちってモヤモヤはしてるけど、行動にどこまで反映されているかっていうと微妙だし、自分自身もモヤモヤのせいで楽しめてなかったり、正直言うと非常に生産性が低い。(自分の中では、もはや「ウジウジ族」とすら思っている。)
そういう状態を知ってか知らずか見抜いていた、さっきの言葉には脱帽。


逆にモヤモヤしていない人間ってなんだろう?
そもそも目の前の現状に盲目的に追従していて疑問すら抱いていない状態ってのは論外。だとしたら、モヤモヤしてる人と同じように現状に疑問や問題意識を持ちながらもモヤモヤしていない人間の間の違いってなんだろう?

個人的には、
・選択的割り切りができる
・論理的思考ができる
という点があると思っている。

モヤモヤな人間とそうでない人間の間では、同じようにモヤモヤを持っても、自分のモヤモヤの発生源がどこで、その発生源においてどんな現状やどんな構造が成り立っていて、その中でも特にどんな点に問題意識を感じていて、その解決策にはどんなものがあり、あるいはその解決策が現状見つかっていないのであれば自分はまず何をすべきで、、、などという点に明快な違いがあると考える。モヤモヤを抱えていても、モヤモヤ族にならず、行動できている人はまさに自分のモヤモヤの構造を把握していて、モヤモヤする代わりに「いまの自分は何をすべきか?」が明確に見えているからモヤモヤしていないのではないだろうか?
論理的にモヤモヤを分析できているから、今できること今できないことがはっきりしている。
今できること今できないことをはっきり把握できてるから、モヤモヤを割りきって前に進むことができる。

もちろんモヤモヤというのは、自分の本当の心の底から生まれてくるものだから、モヤモヤは大事だと思うし、モヤモヤを抱えながらでもなんとか前に進もうとしている姿に共感を感じる人は多いと思う。でもそのモヤモヤをまるで我が子のように盲目的に大事にするのではなく、そのモヤモヤと客観的に向き合ってあげて、モヤモヤを理解してあげることも大事だと思う。それによって、自分のモヤモヤを解消していくスピードも上がるだろうし、自分自身もモヤモヤから解放されて目の前の一日にもっと集中できるようになるのではないだろうか?



さて、①だけでかなりの長文となってしまったので、記事を分割していきたいと思います。
とりあえず、今回の記事はここで止めさせてもらいます。ある意味、それだけ筆者自身も感じるものが多かった証拠でしょう(笑)

少し脱線になりますが、記事を書きながら思った「日本人の考え方」について、下の方に書いていくので、ご関心ある方はこのまま続けていただけたら幸いです。ちぇかふぇの話を読みたいって方は、下は読まずに、ぜひ次の投稿を読んでいただけたらと思います。



Shunichiro




[脱線]
こうやって書いてて、モヤモヤが共感性を高めるというある種の美徳のように見えてしまう点が非常に恐ろしく感じました。確かに等身大のリアルなストーリーとして身近に近付けて考えることができると言うのはあるかもしれません。

でも、モヤモヤしてるって実際は「答えの出ない問題を考えつづけている」という非常に生産性の低い状態なのですよ。モヤモヤしてることは、答えの出るレベルまで分解できていないってことだし、そもそも答えが出ない問題に向き合い続けているかもしれないし、さらにはモヤモヤしてることを売りにして共感を誘うのは「徹夜で頑張ったから許してください」みたいなノリに見えてしまうのは、穿った見方でしょうか?そして、そういう姿に対して美徳や共感を感じる状態って「特攻隊」や「白兵銃剣主義」「一億総玉砕」にカッコよさを感じる危険思想に近いのではと考えるのは、過激でしょうか?

とにかく目の前に現れた大きな問題に対して、とにかく全力でぶつかっていく。そこでどれだけ時間やお金や資源を費やしても、それに向かっていったこと自体が評価されるような構図って、国際協力という大きなテーマの中で全力でモヤモヤしていることにも超大国を相手にとにかくリソースを突っ込ませ危機に迫ったら一億総玉砕でぶつかっていくことにも当てはまってしまっているんじゃないかと思ってしまいました。

モヤモヤしていること自体に酔いしれてしまったら終わりです。
「issueから始めよ」の“悩むと考えるの違いを知ること”“悩んでいる自分を察知できるようになろう”ではありませんが、モヤモヤすることと考えることは違うと思うし、モヤモヤしている自分に気づくことも大事だと思いました。と書いてて、結局モヤモヤする人とモヤモヤしない人の違いって「悩んでいるか、それとも考えているか?」の違いにあるのかな、って思えてきました。

モヤモヤというところから戦前から残る日本人のある意味危険な思考性について考えてみたこところで、モヤモヤしている=悩んでいるという気づきに到達したので、モヤモヤは自分自身の本心の表れというところを振り返りながら最初の問い「モヤモヤするのは何のため?」というところに戻ると、

モヤモヤするってことは自分の本心からの問題意識が生まれたということだと思います。でもモヤモヤは発端であって、モヤモヤするという行動ではなく、“考える”が行動になるべきです。とすると、「モヤモヤする」というのは自分が問題意識に感じる本質の部分を“発現させる行為”であって、すなわち自分の心の奥底にある問題意識を探求する行為であるのではないか、と思います。そしてモヤモヤすることの目的は、自分自身の心の奥底に抱いている問題意識を顕在化し、その問題意識やテーマというものを“考えていく”というところ、にあるのではないかなと思います。

現状、モヤモヤするというのが、ただ単なる悩むことと同義になってしまっているので、これからはモヤモヤするの奥底にある本質的な意味合いについてもっと考えていくべきだろうと思うし、あるいはそこを周知していく必要があるのかなと思います。

非常に長くなってしまいましたね。
失礼しました。
ただ確かにあまりにも「モヤモヤ」を強調してる空気感はあるので、それをもう少し“考える”方向にもシフトして行けたらなって思います。


2014年4月2日水曜日

2014年度開始&ちぇかふぇ2014一日目【2014-No.17】

こんばんは。
Shunchiroです。

ご無沙汰の更新になってしまいました。相変わらず長期休みに弱いです。すでに大学在籍6年目にもなるのに、長期休みの過ごし方だけは未だに慣れませんorz今後の検討課題です。


さて、今日より2014年度が始まりました。
今年は、
ビジコンもありIDPCもあり、、、と、今までとはまた違って、新しい仲間、新しい分野での活動が始まっていきます。正直ビジコンの運営が始まってから、自分が今まで気持のいい空間にいすぎてしまったこと、改めて自分の力のなさなどを実感しております。
そういったこともあり、最近自分の中にある思いが生まれています。

それは、
今までの自分を捨てて、全く新しい自分になりたい
ということ。

口で言うのは簡単でも実際にやっていくのは難しい。
過去の成功体験、過去の自分のやり方、考え方、リーダーシップの在り方、、、
そういったもの全てを捨てて、新しい自分として新しい成功体験、新しい自分のやり方、考え方、リーダーシップ、あるいは創造性を引き出していくプロデューサーシップの在り方。。。

一回きりの人生でも、何回でも生まれ変わって全く新しい自分として、生きていけたら、それだけ幅もあり、楽しい人生になるんじゃないかと思います。気持ちは常に若く、そして漸進的にフレキシブルに、常に次の自分のステージに向かって全力でぶつかっていきたいと思います。




それと、毎年恒例(?)、ちぇかふぇ2014が始まりました!
初日から80人以上の方にご来場いただき、初日から去年感じたような「ポジティブな変化が起きる瞬間」を見させてもらっています。

自分もセッションとして、「ビジネス」という枠を担当しました。
BoPビジネス、ソーシャルビジネスに対する批判を取り上げながら、開発とビジネスの共存可能性を探る、という内容だったのですが、、、反省点満載でした。

大きなポイントとして、
・そもそもテーマ自体が非常に抽象的(「開発」「ビジネス」「共存」)
・そもそも参加者の基礎知識が足りていない
・適切にファシリテーターを割り当てられてなかった
が挙げられます。

その原因は、具体的に参加者のレベル感や議論の流れをイメージできてなかったな~ということが言えるかな、と思います。WSをやる際に、こちらから参加者に伝えたいメッセージという点だけでなく、相手にとって実際にどうメッセージが伝わるか?という点に関してもっと考えていく姿勢が大事だなと思います。
今後の改善頑張っていきたいと思います。



という緩い感じですが、長期休みが明けて、いよいよ気持にも喝が入りました。
勉強、活動、遊び(特に知的遊び心とクリエイティビティ!笑)に力を入れつつ頑張っていきたいと思います。2014年度も本ブログ「Noblesse Oblige」をよろしくお願いいたします。


Shunichiro