2014年4月9日水曜日

現場を持たない自分にモヤモヤ【2014-No.22】

こんばんは。
Shunchiroです。

最近色々なご縁があって、新しい団体の創設を行っているのですが、リーダーシップの在り方について考えさせられます。かなり個性的なメンバーが多い中で、意見をまとめていくのが大変で、コンセプトベースのレベルでずっと行ったり来たりしています。あえて、自分の中の今までのリーダーシップ観をぶち壊して、まったく新しい方法を試そうかとも考え中です。日々成長ですね。



さて、今日は最近すこし考えていることを書こうかなって思います。
それは、現場を持たない自分の国際協力の在り方ですね。(まあ、国際協力って言うワードも使いたくないんですが、それ以外に適切な言葉がないので、、、)

国際協力活動って、多くが自分なりの現場を持ってそこに対する支援を行いながら、色々模索しながら、、、って形が多いと思うんですよね。でも、その中でも私は特定の現場をもたずに、学問的・概念的な部分で国際協力を語っている。

全員が全員現場に関わる必要はないと思うし、私自身色々考えた末に現在の在り方を選択しているのですが、やはり現場の泥臭い話などを聞くと、理論や学問では落としこめないドロドロしたリアルな世界が垣間見えてしまうんですよね。それにやはりそういった自分の現場をもっている人の言葉って、重みが違うし、その背後にある奥深い覚悟などもかんじられる。それと比べると、現場を持たずに概念でしか語ることのできない自分って甘っちょろいのかななんて思ってしまいます。


現時点の私の判断としては、現場に対する深い責任なんて負えないし、現場というローカルにインパクトを与えるだけでは大きな動きにつながらないし、一人で行動するには限界がある。国際協力活動というものをもっともっと広く、そして普遍的なインパクトを与えてるものにしていきたいし、他の人にも参加できるようなものにしたい。だから、私は支援ではなく、ビジネス=商品あるいはサービスという手段を取るし、それを通じたシステムの構築と、学問的概念の提唱を目指している。

でも、ビジネスという手段に置いても現場というものは存在するし、現場に置いては自分が構築したようなモデルやフレームワークなんて通用しない、もっと泥臭いモノかもしれない。そういう意味においては、自らも現場をもちつつ、現場の泥臭さも反映させたモデルやシステムを構築するべきだと思う。そしたら、やっぱり今からでも現場を持ちつつ、実際に貧困層と向き合いながら、製品の開発から理論の構築からやるべきなのか?とも思えてくる。


現状においては、自ら現場という選択肢を捨て、客観的視点からの理論やモデル、システムを考えることを選択したのだが、現場を持つことでそれがただの机上の空論に終わらない地に足のついたものを考えることができるのかもしれない。でもそれが自分には可能なのか?今の自分にとっては、現場を持つほどの覚悟が持てていない。金銭的障壁を理由にしながら、現場をもつことから逃げているのかもしれない。

そもそも現場って持とうと思って持つものだろうか?関わっていく中でなにかしら自分の中に使命感?みたいなものが生まれ(あるいは愛着等もあるかもしれない)、その帰結としてそこがその人の現場になっていくというものではないかとも思う。だからそもそも「現場を持つ」ってどういうことなんだろう?目の前に実際に支援者(あるいは自分の活動の何らかの対象)がいるってことなんだろうか?それともただそこに友人、あるいは大切な人と呼べるような人たちがいるってことなのかもしれない。


自分自身「モヤモヤなんてしてるな」とか言いつつ、この状況。
現状自分にできることは、現場の泥臭さをイメージ(あくまでイメージでしかない)しながら、理論に励むということに加えて、どこかのタイミングで覚悟を決めて現場に飛び込んでいくということなのだと割り切るしかない。現場というものにアンテナを張りつつ、今まで以上に泥臭い部分というものをかんがえてみたい。



Shunichiro


◆思考メモ
「処女とセックスすると、HIVが治る?誤った信仰がマラウイ少女へのレイプを増やす」
http://dev-media.blogspot.jp/2014/02/hiv.html?m=1
「レイプにおびえるソマリア女性たち」
http://dev-media.blogspot.jp/2014/02/blog-post_26.html?m=1
→HIVって保健衛生とか教育分野で語られることが多いと思うけど、この記事読むとそれだけでは全く語れないなって思う。少なくとも、保健衛生・教育・ジェンダー・宗教・コミュニティ・政治・法制度・文化・雇用、、、色んな観点が複雑に絡み合っているのがわかる。対症療法で、現在問題が生じているところに対策をするのは必要だと思うけど、根本的に解決するためには何をする必要があるだろうか?それとも特効薬なんて存在しないから、同時進行的に複数の施策を実施しながら解決を図るべきだろうか。いずれにせよ、もっともっと複合的で総合的な視点が求められていると感じる。
(だから私は、システム思考やソーシャルデザインといった複合的な視点からの解決策を考えることができるメソッドに着目している。特に慶応のシステム×デザイン×マネジメントの視点には可能性を感じている。)

髪は女の命? アジア人の髪を盗む泥棒もいる
http://dev-media.blogspot.jp/2014/03/de5.html
→上と同じく開発メディアganazの記事ではあるが、この中で紹介されている
「食べていくことがもちろん、生活の中で一番大事。でもその次に着飾ることを大切にしているわ。貧しい気持ちで生きたくないじゃない。貧しさから少しでも気を紛らわすためにおしゃれをするのよ。貧しい気持ちになるときこそ、精一杯おしゃれをするの!」

との考え方には少し違和感。
確かに気持ちの面からでも、前向きになることは大事だし、たとえ貧しくても自身の尊厳を保つことは大事だろう。でもそれは少ない収入から絞り出す、おしゃれというところでいいのだろうか?男性の視点にすぎないかもしれないが、心の尊厳を持てていれば、最低限の身だしなみでも我慢できるように思える。でも、もしかしたら女性にとっての最低限の部分がそのラインということかもしれないが、、、でもわずかながらの収入をそこに費やしてしまうのはいかがなものだろうか?おしゃれへの投資がどこまで自分自身を高めることにつながっているだろうか?短期的な尊厳を保てても、その分長期的な可能性は損なっているのかもしれないのに、、、
女性からの意見を聞いてみたい。

「ウガンダとマラウイ、同性愛への対応が真逆だったのはなぜか?」
http://dev-media.blogspot.jp/2014/03/blog-post_25.html
→タイトルとしては同性愛だけど、その対応の裏に存在している社会構造って実に根深いものだな~って感じる。本来自立のために援助しているはずなのに、援助依存の社会構造を生み出してしまっているのも問題だけど、さらにはその社会構造のせいで途上国自身の選択の自由が奪われてしまっている。こういう構造を見てしまうと、援助の意味自体を考えさせられる。非常にうがった見方ではあるが、欧米(ドナー国)のおもちゃにされるために途上国は援助されているのかと、、、「援助じゃアフリカは発展しない」ではないが、根本的に援助(いわゆる開発援助とよばれるもの)が世界に存在していなかったら、この世界はいまどんなものになっていただろうか??



◆読書メモ
・「アフリカ!」
→上記現場を持たないことへのモヤモヤを感じさせられた。泥臭さも破傷風も下痢もスリも嘘つきも、、、すべて存在しているのが現場だと思う。いくら理論が優れていても、そういったもの全てを乗り越えていかないと結局成功もなにもない。でも理論では、そこの突破を補うことはできない。あくまでその現場にいる人がもがき喘いでなんとか実行していくもの。そういった現実をも加味されたものははたして理論にとって可能なのか?それとも、そういった現実をも加味されたものは理論には到達不可能なのか?改めて考えさせられる。

・「リーディング3.0」
→内容自体は、スマホやクラウド、電子書籍を使いながら効率的な読書を、、、とのことだが、それ以上にクラウドへのアクセスが可能になったことで、同時進行のパラレルの人生を歩めるようになったのだという気づきの方が収穫。クラウドがなかったら、自分がアクセス可能な固有の場所にしか自身を存在させることができなかったが、クラウドが生まれたことにより、自身の存在が固有の場所にしばられることがなくなり、どこの場所にいてもクラウドを介してシームレスに自分を存在させることが可能になった。その結果、ノマドやパラレルキャリアな働き方・人生を選択できるようになった。そんなことを考えさせれた。

・「ナレッジサイエンス」
→あらゆる角度から「知識」というものを解体しようとしている本。書籍中では、81の概念や言葉、理論などに触れている。いままで暗黙知として存在し、客観的に理解することができなかったものが、時代の進化とともに解体可能なものになりつつある。「知識」というものそのものへの理解を深めておくことで、知識の習得や活用がもっと効率的になるかもしれない。
でもさすがに81もの観点からの分析を読みこむのは、しんどかった。


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