こんばんは。
Shunichiroです。
今日の大阪は快晴のいい天気でした。
皆様どんな休日をお過ごしでしたか^^?
休日ということで、少しオフモードな記事を書こうかな~とか思ってたのですが、ひょんなことから色々考え込んでしまって、少しガチ記事になってしまいました。
今日のテーマは、国際協力に携わる人にとっての大命題。
ズバリ「国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?」
この記事を読んでくださっているあなたはこの問いにどう答えますか?
・結局人間は非合理性と合理性の二面を持った生き物
国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?
この問いって、非常に難しいですね。
困っている人がいるなら国内も海外も変わらないとか人権~とか国益~とか色々あるけど、どれも一方の見方の領域を超えず、決定打になりうるような回答になっていないと思うんですよね。
つい先日、“Social Justice”という概念を知ったのですが、超要約すると、
生まれついての障害とか貧困って、ひどく不公平な状態ですよね。でもこれって誰もが成りえた可能性のあるものなんですね。よくある話で「さいころを振ってにたまたま日本に生まれた私たちは豊かな生活ができて、たまたまさいころを振ってアフリカに生まれた子供は幼少期にさえ栄養失調で死ぬ可能性がある。でももしかしたら自分もそういった国に生まれていたかもしれない」って。
そういった社会的不公平状態を「仕方ない」と捉えずに、「私もこの不公平を受ける側になっていたかもしれない。だから、そのような不公平のある状態はなるべく除去すべきだ。」という考え方はどうだろう?
ってことなんですね。
この考え方はなるほど~と思いましたね。今まで国際支援って遠い国の話で自分にとっての意味付けがよく見えにくい状態だったと思うんですけど、Social Justiceを考えるとグッっと自分ごとに捉えられるんですよね。
でも、Social Justiceや人権~って言われて、自分が不公平を被っている状態、人権を侵害された状態だったら嫌だろ?って言われても、何か行動できます?イメージわきます?
言ってることわかるけど、具体的なアクションにつながりにくいんですね。
なぜならSocial Justiceや人権~を主張しても、個人の正義感は満たされても経済的には非合理なんですよ。だって、自分が不公平を被っている当事者でない以上、Social Justiceによる効用って正義感以上のものがないんですね。インセンティブに欠けるんですよ。
じゃあどうしたらいいか?って言うと、個人にとってのインセンティブを付与すること。
つまり、国際支援を考える場合、善意や正義感を基にした行動と、経済的合理性の両方の面を考える必要があると思うんです。
・さらに、長期的な意味合いを考える
経済的合理性ってところを考えると、短期的な視点で見ると、国際支援の妥当性を説明しきれないんですよね。ODAのタイド借款~とかあるけど、結局一発終わりの受注にすぎないし、ましてや利益ベースでなくボランティアの形でやってるところなんて特にそう。
「国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?」に十分に答えられないんですよ。
じゃあ、そこでもう1歩踏み込んで考えてみないといけない。
すなわち、時間軸を持ってくるのですね。
そしたら、「短期的にはただの遠い人への人助けであり、身近な人には目をつぶっている。しかし、長期的な時間軸を持って見た場合に~~のような効用をもたらす可能性があるから、その種まきをしておくことは一理あるだろう。」って、なってさっきよりは説得力が増す。
用語で、潜在的パイの拡大とかCSVとか言われるところですね。
すると、さらに問題が。
「パイを拡大するとかビジネスとかって、結局西欧的価値観の押しつけなんじゃないのか?」ってところ何ですね。本ブログの過去記事でもいくつか触れてますが、国際支援が長期で見たら現地の価値観を壊している例、ビジネスが現地の環境を壊している例などあるんですね。
結局、今やってる支援ってほんまに現地の人のこと考えたものになってる?
・経済的合理性と人の善意を統合させるロジックと裏付けが必要
そう考えると、結局、最後には善意に戻るんですよね。
「善意による行動の中でも短期的な経済的合理性を確保しつつ、かつ長期的な彼我へのメリットを生み、かつ人権や善意を叶える。」
そこのレベルまで求められてるんじゃないかと思うんですよね。
「国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?」に答えるには、
ここまで人間の有り様と短期的・長期的な目線を持った上で、非常に戦略的なストーリーを描くことによって可能になるんじゃないかと個人的には思います。
上記のような考え方を進める上で必要になるのは、ロジックとその裏付け。
今、筆者が興味を持っているのはこの領域なんですね。
長期的な経済的メリットと人権・善意の両立を可能にする概念とその裏付け。
この領域を筆者は、HS(Human Satisfied)と呼んでいます。
トータルで見た人間の充足をいかに達成するのか?という視点ですね。
今世界では、人権や人の善意の追求とビジネス的利益の追求の両立が可能かどうかの実証が始っています。CSVや攻めのCSR,あるいはSRIやSROIの考え方。このあたりは上記のロジックを裏付けるようなものにする可能性を持っていると思うんですね。
以上、少し長くなってしまったので、改めて議論の流れとその整理
命題:国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?
・Social Justiceや人権など人の善意に頼った支援は決定打にならない
・人間は善意だけでなく、経済的合理性も求める
・まず、短期的にも、善意と経済的メリットを両立させる
・その上で、長期的に見ても経済的メリットが達成されるようにする
・その過程で、当初とは違う形で現れる人権などの問題について対処する
・つまり、経済的合理性と人の善意を統合させる
これを図で表わすと、
こんな感じです。
以上、No.96「「国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?」に答えられますか?」でした。
国際支援に携わる身として、常に自省しながら取り組んでいきたいと思います。
それでは、明日からまた一週間頑張っていきましょう!
Have a nice week(^^ゞ
Shunichiro
【補足です】
この記事はあくまで、人に自らの国際支援の意味付けを説明するときには、経済的意味付けや長期的意味付けも説明できる必要があるのでは?というところがメッセージです。その時に図で示したようなフレームが役に立つのではないかと。色んな活動がありますが、それぞれの活動すべて経済的合理性を追求しなくてはいけないということではなく、あくまで説明の際にその視点も必要になるんじゃないか?ということです。
Shunichiroです。
今日の大阪は快晴のいい天気でした。
皆様どんな休日をお過ごしでしたか^^?
休日ということで、少しオフモードな記事を書こうかな~とか思ってたのですが、ひょんなことから色々考え込んでしまって、少しガチ記事になってしまいました。
今日のテーマは、国際協力に携わる人にとっての大命題。
ズバリ「国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?」
この記事を読んでくださっているあなたはこの問いにどう答えますか?
・結局人間は非合理性と合理性の二面を持った生き物
国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?
この問いって、非常に難しいですね。
困っている人がいるなら国内も海外も変わらないとか人権~とか国益~とか色々あるけど、どれも一方の見方の領域を超えず、決定打になりうるような回答になっていないと思うんですよね。
つい先日、“Social Justice”という概念を知ったのですが、超要約すると、
生まれついての障害とか貧困って、ひどく不公平な状態ですよね。でもこれって誰もが成りえた可能性のあるものなんですね。よくある話で「さいころを振ってにたまたま日本に生まれた私たちは豊かな生活ができて、たまたまさいころを振ってアフリカに生まれた子供は幼少期にさえ栄養失調で死ぬ可能性がある。でももしかしたら自分もそういった国に生まれていたかもしれない」って。
そういった社会的不公平状態を「仕方ない」と捉えずに、「私もこの不公平を受ける側になっていたかもしれない。だから、そのような不公平のある状態はなるべく除去すべきだ。」という考え方はどうだろう?
ってことなんですね。
この考え方はなるほど~と思いましたね。今まで国際支援って遠い国の話で自分にとっての意味付けがよく見えにくい状態だったと思うんですけど、Social Justiceを考えるとグッっと自分ごとに捉えられるんですよね。
でも、Social Justiceや人権~って言われて、自分が不公平を被っている状態、人権を侵害された状態だったら嫌だろ?って言われても、何か行動できます?イメージわきます?
言ってることわかるけど、具体的なアクションにつながりにくいんですね。
なぜならSocial Justiceや人権~を主張しても、個人の正義感は満たされても経済的には非合理なんですよ。だって、自分が不公平を被っている当事者でない以上、Social Justiceによる効用って正義感以上のものがないんですね。インセンティブに欠けるんですよ。
じゃあどうしたらいいか?って言うと、個人にとってのインセンティブを付与すること。
つまり、国際支援を考える場合、善意や正義感を基にした行動と、経済的合理性の両方の面を考える必要があると思うんです。
・さらに、長期的な意味合いを考える
経済的合理性ってところを考えると、短期的な視点で見ると、国際支援の妥当性を説明しきれないんですよね。ODAのタイド借款~とかあるけど、結局一発終わりの受注にすぎないし、ましてや利益ベースでなくボランティアの形でやってるところなんて特にそう。
「国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?」に十分に答えられないんですよ。
じゃあ、そこでもう1歩踏み込んで考えてみないといけない。
すなわち、時間軸を持ってくるのですね。
そしたら、「短期的にはただの遠い人への人助けであり、身近な人には目をつぶっている。しかし、長期的な時間軸を持って見た場合に~~のような効用をもたらす可能性があるから、その種まきをしておくことは一理あるだろう。」って、なってさっきよりは説得力が増す。
用語で、潜在的パイの拡大とかCSVとか言われるところですね。
すると、さらに問題が。
「パイを拡大するとかビジネスとかって、結局西欧的価値観の押しつけなんじゃないのか?」ってところ何ですね。本ブログの過去記事でもいくつか触れてますが、国際支援が長期で見たら現地の価値観を壊している例、ビジネスが現地の環境を壊している例などあるんですね。
結局、今やってる支援ってほんまに現地の人のこと考えたものになってる?
・経済的合理性と人の善意を統合させるロジックと裏付けが必要
そう考えると、結局、最後には善意に戻るんですよね。
「善意による行動の中でも短期的な経済的合理性を確保しつつ、かつ長期的な彼我へのメリットを生み、かつ人権や善意を叶える。」
そこのレベルまで求められてるんじゃないかと思うんですよね。
「国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?」に答えるには、
ここまで人間の有り様と短期的・長期的な目線を持った上で、非常に戦略的なストーリーを描くことによって可能になるんじゃないかと個人的には思います。
上記のような考え方を進める上で必要になるのは、ロジックとその裏付け。
今、筆者が興味を持っているのはこの領域なんですね。
長期的な経済的メリットと人権・善意の両立を可能にする概念とその裏付け。
この領域を筆者は、HS(Human Satisfied)と呼んでいます。
トータルで見た人間の充足をいかに達成するのか?という視点ですね。
今世界では、人権や人の善意の追求とビジネス的利益の追求の両立が可能かどうかの実証が始っています。CSVや攻めのCSR,あるいはSRIやSROIの考え方。このあたりは上記のロジックを裏付けるようなものにする可能性を持っていると思うんですね。
以上、少し長くなってしまったので、改めて議論の流れとその整理
命題:国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?
・Social Justiceや人権など人の善意に頼った支援は決定打にならない
・人間は善意だけでなく、経済的合理性も求める
・まず、短期的にも、善意と経済的メリットを両立させる
・その上で、長期的に見ても経済的メリットが達成されるようにする
・その過程で、当初とは違う形で現れる人権などの問題について対処する
・つまり、経済的合理性と人の善意を統合させる
これを図で表わすと、
こんな感じです。
以上、No.96「「国内だって困っている人いるのに、なんで海外支援なんてするのさ?」に答えられますか?」でした。
国際支援に携わる身として、常に自省しながら取り組んでいきたいと思います。
それでは、明日からまた一週間頑張っていきましょう!
Have a nice week(^^ゞ
Shunichiro
【補足です】
この記事はあくまで、人に自らの国際支援の意味付けを説明するときには、経済的意味付けや長期的意味付けも説明できる必要があるのでは?というところがメッセージです。その時に図で示したようなフレームが役に立つのではないかと。色んな活動がありますが、それぞれの活動すべて経済的合理性を追求しなくてはいけないということではなく、あくまで説明の際にその視点も必要になるんじゃないか?ということです。
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