こんにちは。
Shunichiroです。最近更新が滞っていたのですが、日々アウトプットしていかないと情報が溜まりすぎて消化不良のまま流れていき、どこかに消失してしまいます。もったいないですよね。そういった取りこぼしをなくすための思考メモですが、習慣化していきたいです。
・孫泰三のブログより、リスクを取るとは?
少し前の記事になりますが、リスクについて語った孫泰三さんのブログ記事がなかなか面白いので、簡単に思ったことを紹介します。また彼の記事の中には兄の孫正義の言葉も記事の中で紹介されています。
まず「リスク」の意味が世間的に誤解を受けているようで、リスクの本来の意味とは「“コントロール可能な”危険」という意味があるそうです。コントロール可能というのミソで、コントロールするためには事前の想定が必ず必要になります。自分たちもよくリスクという言葉を使っているのですが、それに対して、どこまで想定しているのでしょうか?僕もそうですが、なんとなく危険だよね~くらいで使っていることがしばしばに思います。
しかし、孫兄弟は非常に大きなリスクをとり成功してきているのですが、彼らは何をどこまで想定して、決断に臨んできたのでしょう?記事の中では、
「七重八重の構え」などなど、本当にありとあらゆることを考え、想定し尽くし、その上で決断を下しているようです。1000の経営指標に答えていくとかすごいですよね。でもそれだけ考えているからこそ多大なリスクに果敢に挑み、乗り越え、コントロールし、事業を大きく成長させることができるのだと思います。非常に深い経営哲学が詰まったブログ記事だと思います。
「従業員が会社のことについて『1』程度考えているとしたら、経営者は300くらいは考えてないといけない」
「ある意思決定にたいする危険・機会損失を考えられる限り全て考え尽くす」
「100の問答」
「1000経営指標について考え尽くす(千本ノック」
そうそう、記事の中でリスクについて改めてまとめ直していたものがありましたので、それも紹介しておきます。
http://taizoson.tumblr.com/post/23197278519
http://taizoson.tumblr.com/post/21683978912
http://taizoson.tumblr.com/post/22120025635
・志とは、個人の夢が社会という大きなレベルにまで達している状態
これもまた孫泰三のブログからで恐縮ですが、非常に深い言葉だと感じたので、少し長いですが、紹介します。
夢と志の違い
ここで夢や志と言いましたが、実は夢と志は大きく異なります。夢は「将来プロのサッカー選手になってプレミアリーグの試合にスタメンで出場したい」とか「宇宙飛行士になって宇宙を飛びたい」みたいにその人個人が思い描く最高の理想の状態のことを言いますが、一方、「志」という言葉には単なる「夢」とは違うニュアンスが入っていそうです。「志」という言葉から思いつく事例としては例えば、坂本龍馬が幕末に命を賭して薩長連合の説得を計ったことなどいい例だと思いますが、これを「坂本龍馬の夢」というとちょっと違和感があり、「坂本龍馬の志」と言うとしっくりきます。では夢と志の違いっていったいなんなんでしょうか。
結論を言いますと、夢はあくまでも個人的な願望であり、志はそこに社会的な意義を重ねたものを言います。たとえば「将来プロサッカー選手になって活躍したい」という夢を持った少年が、大きくなって実力をつけ、プロサッカー選手としてデビューした後いろいろな経験を積むうちに視野が広がり、最終的に「世界最高峰のリーグで様々なノウハウを学び、それを自国に持ち帰って自国のサッカーのレベルを上げ、貧困にあえぐ多くの子供達に夢と希望を持たせたい」という目標を持つようになったとき、それは個人の願望が社会的な意義を帯びて「志」へと転化しています。つまり、志とは、自分の願望に社会の大義を重ねあわせることによって単なる自分の欲望をなにか実現に値する価値のあるものへと昇華させ、その価値の実現にむけて自分の人生を捧げるというコミットメント(決意表明)なのです。
ちなみに孫家ではよくそれを「究極の自己満足」と言い換えて使います。「自己満足」という言葉には自分さえよければいい、というニュアンスがあって普通は決して良い意味では使われませんが、その自己満足も究極まで突き詰めると、自分さえよければいいというのでは満足できず、自分の愛するまわりの人々もハッピーな方がいいし、もっといえば社会全体がハッピーな方がいいに決まってる、そうじゃないと満足できない、となり、「志とは社会性を帯びた己の夢である」という意味が「自己満足」という言葉のネガティブな意味によって逆説的に非常に際立って浮き上がるため、よく好んで使います。
話を戻すと、自分はなにがしたいのか、自分がやろうとすることの意味はなんなのか、を哲学するということは、自分個人の欲望や願望を明確にしつつ(欲望それそのものは、それが邪悪なものでない限り、否定する必要はないと思います。欲望そのものは自分が生きる原動力でもあるので)、それが社会においてどのような意味・意義を持つのかを考えるということに他なりません。そういう問いを発し続け考え続けることによって初めて、目標の実現のためにすべてを捧げる覚悟が生まれ、 矢折れ刃こぼれ命尽きようともなにがなんでも実現するぞという岩をも穿つ固い信念が生まれるのだと思います。
すなわち、自分の哲学を「志」のレベルまで高めていくことによって決意が固まり、腹をくくることができ、自分の生きる道が定まるのです。論旨をまとめますと、新しいことにチャレンジするためには楽観的でなければならないが、真に楽観的になるためには人事を尽くさなければならず、人事を尽くすことができるようになるためには「自分はなんのために生きるのか」と哲学し続けるしかない。そして、自分の哲学を「志」にまで高めていくことができればそれは揺るぎない信念に変わり、成功するならやるけど成功しないならやらない、というレベルのことではなく自分の人生を生きる意味そのものになっていく、というのが結論です。ということだそうです。「夢」ではなく「志」を持って、私も色んな物事にチャレンジしていきたいです。さて、少し長くなってしまったので、一旦ここで記事を切ろうと思います。
Shuncihiro
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