2013年6月28日金曜日

机上の戦略と現場の戦略

こんにちは。
Shunichiroです。

たまに言われるのが、経営戦略って後付けの理論なんですね。うまくいっている企業を探して、その共通点などを分析し、このような戦略をとっているからうまくいっているのではないか?と提唱しているのが戦略論なんですね。ある意味机上での戦略です。でも現場レベルだと、そうは言っても・・・というところがあるのではないでしょうか?
今日はこの机上の戦略と現場の戦略について考えてみたいと思います。


最近読んだ「BCG流戦略「脳」を鍛える」という本の中でも、ベースとなる机上の戦略は必要ですが、それに加えて、勘所や直感といった‘インサイト’の部分が重要になると在りました。ビジネススクールなどではケーススタディなどを通して、ベースとなる戦略をたたき込み、それを通して使い方を学んでいきます。そして実際のビジネスでは、ベースに身についた戦略を用いて、それぞれの事業で使ってみたり、時には応用してみたり、時には組み合わせてみたり・・・といったことをしていきます。

こういったことを考えたとき、ふと学校で教わってきた数学を思い出しました。ベースとなる公式を覚え、練習問題を通じて徹底的に身につけていく。そして入試などでは、複数の公式を用いていったり、あるいは公式を適切に変形したり、時にはそのうえで独創的な解法が求められます。

この過程って、戦略の議論にも非常に通じるものがあるのではないか?と思います。
基礎となる公式として、5Force戦略だとかブルーオーシャン戦略だとか3C分析だとかを頭に叩き込んでいきます。そして実際の現場では、そういった基礎となる公式を活かして、自分の事業に色々変換してみるのです。ときには公式そのままではうまくいかないときもあるでしょう。色んな戦略を組み合わせてみても、うまくいかないときもあるでしょう。そうして、さまざまな工夫を経て事業がうまくいったとき、後付けで○○戦略という形で理論化、新たな公式化されていくのだと思います。



現場の戦略は、いわば暗闇の航海です。自分の取った戦略がうまくいくかどうかは誰もわかりません。しかしその独自の戦略の背後に徹底的な基礎戦略の土台があるからこそ、自らの意思決定にリスクを取っていけるのだと思います。

私もまだまだ勉強中の身ですが、このような基礎、公式を固めることを大事にしていきたいと思います。


関連書籍
戦略「脳」を鍛える







外を見るリーダーと内を見るマネージャーの経営への関心の違い

こんにちは。
Shunichiroです。

今日は非常に親しい友人と語っていました。この友人とはまだ知り合って1年経ってないのですが、出会ってすぐ意気投合し、現在も交流が続いているという形です。

なぜ、この友人と非常に気が合うかというと彼は組織に関わる際どちらかというと組織のマネジメントをしていくマネージャータイプで、逆に筆者である私は組織においてどちらかというと人を引っ張っていくリーダータイプという、お互い基盤である部分は同じなのにその方法が全く逆であるとお互いの特性があり、それがうまく噛み合っているからだと思います。

前置きが長くなりましたが、組織においてリーダー・マネージャー両者とも必要不可欠な人材です(中には一人で両役こなせるスーパーマンもいますが・・・)。その両者の視点の違いについて考えていきたいと思います。



まずリーダータイプは、組織を導くことやビジョンを指し示すことなど組織が進んでいく方向やその将来に関心があります。どんな事業に乗り出すか?どんな製品が受けるか?この業界にはどんな未来があるのか?組織は何を目指すべきか?等など、いわば、リーダーの関心は組織の外の世界に向いています。

逆にマネージャータイプは、どうやったら組織をより効率的に運用できるか?どうやったら内部のリソースをうまく使うことができるか?どうやったらよりよい組織になれるか?等など、いわば、マネージャーの関心は組織の内部の世界に向いています。

前出の友人と経営論についての話になったとき、この違いが顕著になり非常に興味深く思いました。リーダータイプである私は経営戦略に興味があり、友人は組織管理や人材教育などオペレーションに興味があると話しました。別にお互いに、オペレーションに興味がないわけでも、経営戦略興味がないわけではなく、むしろとても大事だと思っているのですが、それぞれがやりがいに思えるのは戦略であり、オペレーションなんです。


これはどちらが良い悪いとい言う問題ではなく、両者が互いに力を活かしあうことが大事になります。例えば、創業期や先が見えにくい事業である場合リーダータイプが前にでて活躍していくことが多くなります。しかし一方、その影の部分ではマネージャーがしっかりと組織運営を固めていないと、事業自体が前のめりになってしまいますよね。また事業の安定期などはマネージャータイプが活躍します。創業期から今まで手探りで行ってきた業務などを、まとめあげマニュアル化しルーティンワークとして落としこんでいくという作業を行っていくからこそ、組織全体での効率化が図れ、また質の担保ができるのです。もちろんこの時もリーダーは安定路線に慢心するのではなく、組織が新たに進んでいく方向などを模索することになります。


組織をより効率的に運営しまた成長していけるかは、全くタイプの異なるリーダー・マネージャーの間で事業に対する適切な相関関係が作れるかにあるのではないでしょうか?友人と久しぶりに話したことで改めて、こんなことを考えました。



関連書籍
最高のリーダー、マネジャーがいつも考えているたったひとつのこと

ヒーローズジャーニーと志の成長

こんにちは。
Shunichiroです。

今日は素敵な縁があり、グロービズ経営大学院の方とお会いしてきました。ちょうど最近「志を育てる」というグロービス創業者の方の著書を読んでいたので、縁って不思議なものだと思っています。


さて、今日はその「志を育てる」ということについて考えていきたいと思います。
「志」と聞いて、あなたは何を思い浮かべますか?
人生の使命?目標?生きがい?・・・いずれも人生を賭けて成し遂げる何か壮大なもの、というイメージがあるのではないでしょうか?

でも、始めからかっちりと志を決めるって難しいと思うんです。
「志を育てる」によると、志は①壮大な目標とでもいえる大志と②身近なところにある小志とあるそうです。そして、小志を成し遂げてて行くうちに、大志も成長・深化していくとあります。何事もそうかもしれませんが、小さなことを積み重ねていくうちに、色々考えなおしたり、別の課題に出会ったりして大きな部分も変わっていくのです。

この本では色んな方の人生の歩み、志の成長をケーススタディとして紹介されていますが、この本に載っている方々だけでなく、色んな方々の歩みをみると、志の成長にはある程度決まった道のりがあるようです。

①何か課題や目指すべき目標が見つかる
②取り組むべきものに取り組み、小さなことから達成していく
③壁にぶつかり、今までの方法や在り方に悩んだり、考えなおしたりする
④壁を乗り越え、
⑤そこでまた新たな課題や目標を発見、設定する
この①~⑤のステップを繰り返していくことで、まるで螺旋階段を上るかのような形で自身の成長、志の成長になっていくようです。

この記事を読んでいる皆さんも過去を振り返ると共感できる部分があるのではないでしょうか?


そして実は、このステップは俗に言う「ヒーローズジャーニー」というものと同じような過程なんです。ヒーローズジャーニーとは物語によく表れるもので、日本人にはなじみの深い「もも太郎」、あるいはハリウッドで有名な「スターウォーズ」もヒーローズジャーニーの形をとっています。



このヒーローズジャーニーがなぜ人の共感を誘うのか?なぜヒット作になるのか?というのは、人の成長のステップ、志の成長のステップに沿っているため、色んな人の共感を誘うからです。物語と接している中で、誰しもが経験したことのあるようなステップを物語の主人公が目標に立ち向かい悩み努力し壁を乗り越え、成長する姿が、私たちの過去の経験とオーバーラップしていきます。

ある種、このヒーローズジャーニーの形は人間の成長の王道の形ともいえるのです。



ヒーローズジャーニーの形、志の成長のステップを覚えておき、自身の現状と照らし合わせてみたり、過去の成長の過程を振り返ってみたりすると、新しい自分や新しい気づきが生まれるかもしれませんね。



関連記事
志を育てる―リーダーとして自己を成長させ、道を切りひらくために







2013年6月27日木曜日

オーディオブック~学びの多角化~

こんばんは。
Shunichiroです。

皆さんはどんな方法によって学んでいますか?
大学生ならば講義が多く、社会人の方にとっては仕事の全てが学びであったり、あるいは帰宅してからの読書などが当たるのではないかと思います。


しかし、学びの方法ってこれだけでしょうか?
私たちは成長の過程で学校教育を受けてきたため、学校での講義や自宅での読書といった学びばかりに目が向き、他の方法ってあまり知らないし考えたことがないと思いますが、学びの方法ってこれだけではないと思うのです。

例えば、外部のセミナーに参加するのも一つの方法ですよね。企業が主催しているもの、NPOなど市民団体が主催しているもの、あるいはネット配信で見るもの等など。ちょっと興味を持ってネットで調べればいくらでもセミナー情報は入ってきますよね。

また、科学技術の発達のおかげで、ネット配信での講義などを受けることができます。しかもその中にはハーバード大学やスタンフォード大学など世界のトップスクールの講義を配信しているものまであるんです。



こういったところで学ぶのも一つの方法ですが、最近私が着目しているのは‘音声による学び’です。「オーディオブック」というものを聞いたことがあるでしょうか?耳で聞く本という別名の通り、本に書かれている内容がナレーターの方によって音声化され、従来の読書のように目で読みページをめくるというスタイルではなく、耳で読書していくものです。

オーディオブックのメリットはいくつもあります。普段仕事や何かで忙しく、まとまった時間を取れない方でも通勤中などで学びを楽しむことができるし、またものによっては倍速再生も可能なため通常よりも早い時間で学ぶことができます。

またこのオーディオブックは電子書籍と非常に相性がよく、ハードのテキストスピーチ機能などによって、自分が関心のある身近な文章なども耳で聞くことができるようになります。


このオーディオブック、最近一部の人の間では知られるようになりましたが、まだまだ市民権を得ているとは言えません。そのためオーディオブック化され利用可能な書籍が少ないのですが、多くの方が関心を持つようになれば、もっと商品のラインナップも充実していくと思います。


みなさんも、自分の学びのチャンネルを見直し、オーディオブックの可能性を感じてみてください。



オリンピック東京招致必要ない!

こんばんは。
Shunichiroです。

最近オリンピックの東京招致議論が盛んですね。猪瀬発言などで一時は絶望的かと思われたが、イスタンブールのデモなどで東京開催の可能性が再燃していますね。

しかし、私の意見としてはオリンピックの東京招致は反対です。そもそも五輪や万博やW杯などの開催地の多くはその地域の開発という観点から選ばれていることが多いです。例えば、日本の経済成長期での東京オリンピックや大阪万博は交通インフラの充実やその地域が経済的に活性化を促し、その国の経済成長を促すテコになりました。近くは北京五輪や上海万博、南アでのW杯開催などを考えるとわかりやすいでしょう。つまり五輪や万博などの国際イベント開催によって、その国自身の経済成長に大きな影響を与えられることが国際イベント開催の大きなポイントと言えます。


では、2013年現在での東京五輪招致は上の観点から見てどうでしょうか?
正直、疑問の点が多いと思います。すでにインフラは整っているし、五輪開催が日本全体の経済成長のドライブを促す要因になるとは思えません。

また国際イベントというのは開催前のインフラなど環境整備だけでも非常に大きなお金が必要になります。日本も例外ではなく、新たな施設の建設なども必要になります。さて、現在非常に多額の債務に苦しむ日本で、その財政負担を抱える意味があるのでしょうか?


もうひとつ大事な点として、国際イベントの開催を迎えたとして、その時は盛り上がって消費も大きくなり良いかもしれませんが、そのあとが非常に問題になります。新たに作った施設などを維持していく必要があるのです。そして、このランニングコストが非常に負担になるのです。
では、いったい誰がこのランニングコストを負うのでしょうか?国?自治体?企業?あるいは国民の税金でしょうか?



日本は現在社会保障や年金問題など多くの分野で財政的負担を抱えています。そのような在世状況の中、一時的には経済効果をもたらしても、長期的に見たらデメリットでしかない五輪招致を行う必要があるのでしょうか?
私は、東京五輪の招致は全く必要ない!と思っています。現在の日本には五輪招致に以上に尽力しなければならない課題が多く存在します。五輪招致や開催に係る費用は、そういった問題にこそ使われるべきだと思います。


ちょうど、時を同じくして、ブラジルでのW杯開催の話が持ち上がっています。しかし日本とは違ってブラジル国民はW杯招致反対のデモまで起こっております。国民の主張は、確かにW杯開催も大事かもしれないが、W杯よりもまず社会保障や教育整備のためにお金を使ってほしい、と訴えているのです。(http://kasakoblog.exblog.jp/20695185/

日本人と、ブラジル人。比べる必要はないかもしれませんが、国際イベント招致に対する両者の態度の違いは大きいのではないかと思います。日本人はもっと国民一人ひとりが短視眼的な‘お祭り’ばかりに目を向けるのではなく、本当に自分達にとって大事なことは何なのか?を考えていってほしいと思います。

2013年6月26日水曜日

亀裂の入った今の社会を変えていくには?

こんばんは。
Shunichiroです。


連日の雨に気が滅入ります。その分自宅にこもり多くの本を読んだり、色々考えることができるのですが。


資本主義・民主主義に限界が訪れ始めてるのは多くの方が気づいてきていると思います。Occupy WallStreatに代表されるように、ますます格差が広がり、貧困は増え続け、富裕層はますます富んでいく。また民主主義という建前の中、政治は政治家の手に握られ、連日アホみたいな政治ゲームが繰り返され、国民はそのツケを政治家の代わりに背負わされています。現在の世界に在り方には多くの人が疑問を抱き、様々なところで行動を起こしています。当初は社会で求められていた資本主義・民主主義体制には亀裂が走り始めました。

しかし、色々なところで限界の兆しが見え始めているこの社会ですが、そう簡単には変わっていかないし、崩壊に陥るなんてことはありません。なぜなら、この社会の限界に気づいていない人は現状のままの生活を続けることによって変革を無意識に拒み、またこの社会を崩壊しないように先延ばすよう尽力する人もたくさんいるからです。
もし今の社会が今のまま何も変わらず崩壊を迎えた場合、私達の生活は甚大な影響を受けるでしょう。貧困や暴力、犯罪が横行し、私たちの生活は非常に恐怖に満ちたものになるでしょう。


そうならないためにも、私たちができることは「日常の中で私たちができることをする」ことです。毎日のように反原発でもに参加せよとか政治集会に参加せよ、とは言いません。私たちが普段日常を過ごしている中で、できることをすればいいのです。

すでにこの社会には至るところに亀裂が見え始めています。多くの人はまだ気づいておらず、また権力者層はこの亀裂から目を背けさせようとしています。

この社会を変えるためには、この亀裂、今の社会のおかしさに気付き、そして権力者層に亀裂から目を背けさせないようにし、また自らできる範囲で行動するだけで良いのです。そういった人が増えることが大事なのです。


今の不合理な社会が変わっていき、もっと多くの方がよりよい生活を送れる日がくるのを望みます。



関連書籍

革命---資本主義に亀裂をいれる

戦略コンサルって脚本家に近いのか?

こんばんは。
Shunihciroです。

戦略コンサルには以前から興味があって、インターンに参加したり、色々本を読んで勉強したりしているのですが、その過程で段々とあるイメージが浮かんできました。それは、戦略コンサルって実は脚本家に近いのでは?ということ。

まだまだ思考の段階で、しかもインターンという形でしか業務に携わっていないのですが、考えていることを記事にしていきたいと思います。



ウィキペディアによると
>コンサルティング (consulting) とは、企業(まれに行政など公共機関)などのクライアントに対して、専門知識を活用するなどし、客観的に現状業務を観察して現象を認識、問題点を指摘し、原因を分析し、対策案を示して企業の発展を助ける業務を行うことである。または、その業務そのものを指す。
と説明されています。

第3者視点として、クライアントとその市場と関わり、なんらかの新たな道を示す仕事と言えます。その仕事の中で大事なのが、クライアントにその道を進むことに納得感や未来へのイメージを持ってもらえるかどうか?なのではないかと思います。

実際コンサル業界でも見られる話に、道を示してコンサルとしての契約は終了したんだけど、そのあとその企業が本当にその道に進めていない時があるそうです。その道を進むための改革はしようとするものの、結局今までのビジネスモデルや体質を変えきれず、コンサルが示した道に挫折してしまうというのです。



この問題に対して、クライアント企業側の努力不足だ!という見方もありますが、それだけではなく、コンサルが示した道に対して本当に心から納得感や未来へのイメージを持ってもらえていたのか?という見方もできると思います。

ある意味コンサルは道を示したところで仕事は終わり、その後の実行やそれに伴う努力をするのはクライアント側です。クライアントがその努力やしんどさを抱え変わっていけるかどうかは、コンサルが示した道に対してどれだけ納得できていて、どれだけ魅力を感じているかにかかっているのではない?と思います。そこで、人に納得や魅力を与える仕事って何だろう?って考えたときに、脚本家やシナリオライターって浮かんだんです。


脚本家、シナリオライターって
脚本家(きゃくほんか)とは、主に映画テレビドラマアニメゲーム舞台ラジオドラマなどの脚本を書く人のことを指す。シナリオライターとも言う。
それで
脚本(きゃくほん)とは、「何時。何処で。誰が」の天地人を示す柱書き台詞ト書きだけで構成された設計図的役割を担うテキスト。小説とは形式が異なる。

ってあるんだけど、エンターテイメント業界で、どうやったら観衆(視聴者)にウケるか?どうやったら観衆(視聴者)に魅力に思ってもらえるか?っていう道を示す仕事だと言えるのではないかと思います。脚本家・シナリオライターの示す道である台本・シナリオの裏には、例えば人間心理学に基づいたストーリー展開がされてたりとか、ほんの些細な感情の機微を感じさせる描写を入れてたりとか、非常に綿密に分析や計算がされているのではないかと思うですね。そして番組が始まっていくと、ある意味脚本家の計算通りに観衆にウケていき、続きが見たい、続編が見たい思わせる。


少し強引な結びつけかもしれないけど、これって戦略コンサルの仕事と似たところがあるんじゃないかなって思うんです。ビジネス戦略論や色んな分析を駆使して、綿密なストーリーを組み立て、市場やクライアントという観衆のウケ(業績の向上・納得)を狙い、またそのストーリーの未来への想像を掻き立てる。



全然違った業種に見えるけど、どこかつながっている部分があるんでしょうね。
今後脚本家としてのコンサルタントの在り方について、もっと考察していきたいです。



2013年6月25日火曜日

グローバル化によるリスクの個人化

こんにちは。
Shunichiroです。

前回のエントリー「グローバル化、ローカル化」では、人やモノや情報が世界中を自由に行き来する現在の状況をグローバル化と言われていますが、個人に視点を移してみると、人やモノや情報を通して個人の価値観や文化に影響が与えられるため、以下に適応していくか?というローカル化が起こっている、ということを述べました。
今回のエントリでは、グローバル化⇔ローカル化という中で、個人は何に留意しなくてはいけないのか?を考察してみます。


グローバル化によって、あらゆるモノが私たちの世界に侵入してきます。もちろんいいものもあれば、悪いものもあります。またグローバル化した世界では、国家の力が及ばない領域が増えてきます。このような中では、私たち個人がグローバル化を通して入ってくるあらゆるモノと向き合っていかなければなりません。これはリスクの個人化と言われます。


例えば、SARS等の感染症も国や地域を超え、世界的に広がっていきます。どこに潜在的感染者がいるのかもわからない中で私たちは対処していかなくてはなりません。またテロ攻撃も、私たちの身近で起こりかねません。また、世界のどこかの国の政治や経済や金融の事件も私たちの生活に何らかの形で影響を及ぼしてきます。

私たちはグローバル化する世界の中で、様々なリスクと直接向き合うようになり、リスクに対処する能力を身につけていかなければなりません。そのために何ができるのか?どんなことをすべきなのか?どう対処するのか?考えていく必要があります。



関連書籍


“反転”するグローバリゼーション
世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫)

外から見たらグローバル化、内から見たらローカル化

こんにちは。
Shunichiroです。

最近蒸し暑い日が多くて嫌になります。我が家では早速クーラーを稼働してしまいました。一度つけてしまうともう戻れませんね。


グローバル化という言葉は最近非常に日常的なものになってきています。色んなところで「我が社もグローバルな戦略展開を」「グローバル人材の輩出を」とか、耳にしますよね。でもグローバル化の反面、文化や価値観の押しつけではないか?という議論もあったり、テロの恐怖の蔓延、あるいは感染症の世界的拡大などその弊害の部分にも言及されるようになってきています。
今日はこのグローバル化について考えてみたいと思います。

グローバル化とは、科学技術の発展により空間・時間的距離がどんどん縮小され、人やモノや情報が自由に世界中を行き来している状態のことを指しています。しかし、おもしろいことにグローバル化によって互いに行き来が自由になった結果、人々は自分の出身国や出自にこだわるようになり、自分のアイデンティティを求め始める様になりました。まるで航海する船が錨をおろすかのように、自分がつなぎとめられている場所を気にし始める様になったのです。


自分の出自などにこだわるというのは、自らの元となる=自らの地元にこだわるようになったと言えます。グローバル化によって、逆に自らの地元=ローカルについて考える様になったのです。このような外からみたらグローバル化であっても、内側、自分の視点で見たらローカル化している、という状態が、現在世間で言われているグローバル化の正体です。

グローバル化によって、色んな文化や価値観や製品やサービスや情報がありとあらゆるパイプを通して自分達の内側に入ってきます。その中で私たちは無意識的に自分のアイデンティティの元を守り、また新しいものと融合していくというローカル化を進めています。


世間ではグローバル化の表の意味である、製品やサービスの世界的展開という面しか語られませんが、自分視点で見るとローカル化であることを忘れてはいけませんね。




関連書籍

“反転”するグローバリゼーション
世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫)



2013年6月19日水曜日

テロリズムと支配の個人化

こんばんは。
Shunichiroです。

先日元CIAの職員が政府はgoogleやFacebook等の企業を介して、国民の情報にアクセスしているという話がリークされ、世界中で物議を醸しております。情報の真偽はわかりませんが、9・11に端を発する社会リスクの性質の変化がこのような動きにつながっていると思います。


9・11以前は社会リスクというものは冷戦に代表されるような国と国の争いや国と組織の争いなど、何らかの母体を持った者同士の間で起こる物でした。したがってその対策も、母体に対する対策が中心になっていました。

しかし、9・11以降この状況は大きく転換することになりました。テロリズムという概念が社会のリスクの中心になり、しかもテロというのは普通の市民の中に紛れ込み、特定の組織にたいして対策を行うという性質のものではなくなってしまいました。そのため政府はテロを未然に防ぐためにも、監視や支配の対象を組織という大きなものではなく、市民一人一人に対しても広げざるをえなくなってしまったのです。
それが、今回のリーク事件の生い立ちです。


私たちの情報の全てが監視・支配されているという状況に賛否両論はあると思います。テロを未然に防ぐためという名目の上においては、私たちが不審なメールのやり取りをしていないか、疑わしき情報を持っていないか、危険な物を持っていないか、ということは監視することは必要に思います。しかし、わたしたち監視される側から見たら、非常に不快きわまりません。私たちの電子上のやり取り全てがチェックされ、何か政府にとって問題に思われるような言動などがあれば「テロを未然に防ぐため」という口実のもと、身柄の拘束を受けかねません。

しかし問題の一つには、何をもってテロを未然防ぐためという線引きがなされるか?があると思います。もちろん日本でもいくつかメディアで取り上げられている「学校を爆破する」などの書き込みでもって、未然に防ぐためその投稿者の身柄を抑えるなどは正当な監視の在り方かと思いますが、例えば反原発デモの呼びかけなどはどうでしょうか?直接テロにつながるとは考えられないまでも、拡大解釈によっては社会不安を煽りかねないから未然に対処するということもありえないわけではないと思います。あるいは特定の政治家を批判する書き込みをしたら、批判が過激した先の政治家の暗殺を未然に防ぐため、身柄を拘束するという可能性も存在します。


つまり、テロを未然に防ぐためという政府の解釈次第では、私たちの言論の自由、表現の自由、そして身体の自由が脅かされる可能性もあるのです。まるで戦前の大政翼賛会、あるいは共産党による独裁政治のようです。



日本でもマイナンバー法が成立するなど、私たちの情報を管理する仕組みが整い始めています。アメリカで起きたことは対岸の火事ではないのです。上で述べたような監視・支配の暴走が起こらないとも言いかねない中、今回のリーク事件は改めて私たちの情報について、政府の管理・監視について考えさせれました。





関連書籍
世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫)

2013年6月18日火曜日

リスク不感症の日本人

こんばんは。
Shunichiroです。

世界にはいろんなリスクが常に存在しています。3・11により日本ではそのリスクの一つ原発の問題が顕在化しました。他にも日本や世界が抱えているリスクとして、テロ、環境問題、自然災害、エネルギー・資源問題、通貨リスク、債務リスク、高齢化、少子化といったものがあげられます。

しかし、わたしたちは日々の生活の中でこれらのリスクの恐怖におびえることなく平穏に暮らせていますね。あるいは、リスクそのものについて日々特別な意識を持っているわけではないですよね。今回のエントリーでは、リスクに対する日本人の捉え方について考えてみたいと思います。


リスクに日々恐怖を抱くことなく過ごすには
①リスクを認識しているが、すでに対策済み
②リスクを認識しているが、無視している
③リスク自体を認識していない
の二つの道があると思います。

まず、①リスクを認識しているが、すでに対策済み、という点から考えていきたいと思います。
日本で生活している中で、飢餓や生命の危機といったリスクを感じることは少ないです。日本にはしっかりした物流が存在し、また私たちも色んな物を買うことができる十分なお金を持っているからです。しかし、世界の国々の中には毎日の食糧や日々の命に気を配りながら、生きている人たちもいます。そういった国では日々リスクを意識せざるを得ないほど、インフラが整っていなかったり、政治が乱れていたり、富の配当が行われていないのです。
こういった点をみると、日本の食という観点ではリスクを感じなくなる水準まで物事が整っていると言えます。


次に②リスクを認識しているが、無視している、という点ですがこれは非常に厄介な問題です。無視しているという中には、経済的なコストパフォーマンスなどを見た上であえて無視している、というものや何らかの構造上対策を立てることができないので無視されている、という問題をはらんでいます。

前者の例が、3・11のときでも話題に上がった防波堤の件。
宮城県沖での地震の可能性の調査内容によれば、マグニチュード7や8を超えるような地震も想定されていたと聞きます。そのような大規模な地震に備えるためには膨大なコストがかかってしまいますが、そんなに大きな地震が起こる確率は低く、何百年に1度というものでしかありません。そのためコストパフォーマンスを考慮すると、もし起きたら非常に大きな被害を及ぼす大地震はあえてむしして、より頻繁に起こる震度6や7に合わせた対策をとることが一番いいということになるのです。これを想定除外と言います。

また後者の例としては、政治問題でしょう。
政治家は通常3年ないし6年で、選挙を迎え入れ替わることになります。誰しも職を失いたくなく、次の選挙でも当選することを目標に任期の間の公務を行っていきます。日本の財政や社会保障、年金の問題を長期的に見たら、必ず対策しなければいけない問題です。しかし政治家は短期的な目標、あるいは得票を気にしてしまうと、多くの支持を得られにくい思い切った改革はできなくなってしまいます。その結果、対策しなければならないリスクだとは感じてはいるものの、選挙という構造上手が出せないたっめ、あえて無視する、という選択を取らざるを得なくなります。


③リスク自体を認識していない、に関しては一見議論の余地がないかもしれませんが、難しい点がリスクを感知している人とリスクを感知していない人の差です。同じ問題に対してもリスクを感じる人とリスクを感じない人がいます。それは価値観や考え方の違いということもできますが、一つの見方としては、情報隠ぺいやプロパガンダの可能性もあります。

また原発の例になってしまい恐縮ですが、3・11が起こる前まで、国民の多くは原発は安全なものであるという考え方に染まってしまっていました。原発による電力供給を推し進めていきたい、政府とその関係者による安全神話にそまってしまったのです。これはプロパガンダの一つでしょう。もちろん原発の危険性を訴える人たちもいましたが、そのような人たちの行動やオピニオンはあまり取り上げられません。これは情報隠ぺいだと言えます。




①~③のような点から日本社会のリスクへの感度を考えると、日常的でせつな的部分ではすでに特に対策の必要がないほどの水準の豊かさの国といえますが、より大きく将来的な問題である原発や高齢化、債務問題、社会保障といったリスクには対処できていないにもかかわらず、無視されている、あるいは認識されないようになっている状況ではないかと思います。

市民の多くが日常的に不安を感じずに生活できていることは平和の表れであり、非常に良いことだと思いますが、その裏で生じているリスクに対して無関心、無防備で居るのはあまりにも危険だと思います。国レベルでの対策を待たずとも、個人である程度備えられるリスクもあると思います。

身の回りに存在するリスクについて、不感症で終わってしまうのではなく、リスクとちゃんと向き合い対策し、そのうえで現在の平和を楽しめるようになれば、リスクに翻弄されない生き方を目指すことができるのではないでしょうか?







自分ごととしての社会

こんばんは。
Shunichiroです。

先日私が非常に信頼を置いている仲間とともに合宿を行い、さまざまなことについて語り合いました。その中で出た議論の一つに、アメリカだとか他の国ではロビイングだとか学生運動だとか非常に市民による活動が活発なのに、日本ではなぜあまりこういったことが起こらないんだろう?という話になりました。今回のエントリーではその議論を共有したいと思います。


社会って聞いて何を思い浮かべますか?身近な友達?学校?コミュニティ?あるいは遠くで政治家がなんかやってるところ?・・・社会という言葉自体非常に範囲も広く、人によって解釈が異なってしまいますが、大事な点はその社会の中に‘自分がいるか?’という点だと思います。

日本の中での社会のイメージは、とかく政治家がワイワイなんかやってるところというイメージが多く、自分達とは遠くのあまり関係のない世界だと思われている節があります。その理由の一つとして、間接民主制のため自分達の考えは選挙という機会でのみ主張することになり、しかもその結果として当選した議員が自分達が思っていたようには全く動かないところにあると思います。自分が政治を社会を動かす、1アクターであるという認識に非常に乏しいのです。そのため、社会を自分ごととしてとらえることができず、政治や社会に無関心になってしまいがちなのです。

もちろんこの構造の背後には、政治家への不信感であったりだとか政治機会の少なさだったりがあると思いますが、私たち市民一人一人がもっと政治や社会に対するオピニオンになれるということを意識していくことが大事だと思います。


例えば3・11以降、日本でも反原発デモや政治集会が開かれるようになりました。その理由の一つには、放射能の問題や原発という自分達の生活にも関わる重大な問題が起こったからだと思います。今までは遠かった社会というものが、自分の生活と関わっていると強く認識されるようになったため、多くの市民の中にも問題意識が生じ行動につながっているのだと思います。
今まで身近にあったけども、ほとんど意識してこなかった社会でも、自分ごととしての社会だと認識した時、人は強く関心を持つようになり、このように行動を起こすようになるのです。


私たちの生活の中で社会と関わらないところはあるでしょうか?
例えば、日本経済だとか世界情勢だとかあるいは社会保障、年金、医療、政治・・・それらはふだんは強烈に意識されないまでも、確実に私たちの現在の生活や将来の生活に何らかの影響を及ぼしています。それに気づいていないのは私たちの方なのです。しかし、社会をあまりにも遠くの関係ないものとして見ているため、何か問題が起きた時はすべて政治家の責任にしようとしてしまいます。自分達が関わっているものに無関心で居続け、不利益を被ったときだけ、その実行者に責任を押し付けるのは何か違うんじゃないかと思います。


社会は政治家のものでも経済人のものでもありません。私たちひとりひとりのものです。社会と遠いよくわからない存在としてではなく、自分ごととしての社会として見て行ったら、今の社会に対して色んな関心が芽生えると思います。別にデモに参加しろだとか、何か行動しろと強制するつもりはありません。ただ、一人ひとりが社会というものを自分ごととして考えながら日々生活してほしいなと思います。


視点の違いと物事の本質をとらえる考え方

こんばんは。
Shunichiroです。

私たちは常に自分という視点にとらわれていて、私という視点から世界を見ています。これは私やあなただけでなく、誰しも同じです。それぞれの人がそれぞれの視点から世界を見ています。しかし世界は複雑にできています。そのため、日常のちょっとしたことでも自分の視点と他の人の視点が異なることがあります。

例えば、朝起きた時雨が降っていて、これから出勤する自分にとっては憂鬱かもしれません。しかし、隣の家に住む農家の方は恵みの雨であると喜ぶかもしれません。あるいは、日本が金融緩和を行うということに日本人は喜ぶかもしれませんが、中国人は不快に思うかもしれません。

雨のように身近な例では自分の視点と他の人の視点が異なることに気づきやすいかもしれませんが、より大きな問題、政治や経済や軍事や金融やテクノロジーや国際関係や・・・というところに広げていくとなかなか他人の視点をイメージしづらくなってしまいます。
他人の視点をイメージできなくなると、自分の都合ばかり主張してしまいがちになりそれに対する他者の反応だとか、その裏の構造というものに目がいかなくなってしまいます。その結果、両者の見解がドンドンずれてしまい、損失や不利益につながったりしてしまうこともあります。



ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、今回のエントリーでは日々の物事の捉え方として、自分の視点にとらわれるのではなく、他人の視点に立ってみることやその背後にある構造について考えるということについて話してみたいと思います。

世の中に起きている様々な物事は、自分から見える景色だけでなく他の人から見える景色も内包した複雑なものの表象にすぎません。イメージとして、自分が好んで使っている表現が「氷山」のイメージです。


私たちは氷山の海面にでている部分しか見ることができませんが、その背後により大きな影が潜んでいます。この隠れた部分にも気をつけないと、船は氷山にぶつかってしまいます。情報の見方・捉え方もこれとおなじで、その背後に隠れている構造などにも踏み込んでいかないと真実の姿は見えません。

そして、この氷山の見え方は人によって異なります。私たち側から見たらずんぐりむっくりな形かもしれませんが、横から見たら細長いかもしれないし、あるいは上から見たら楕円かもしれません、水平から見たら平べったかったりするかもしれません。あるいは遠くから見たら、遠近法により小さく見えるし、間近から見たらはるかに巨大な壁でしょう。
同じ対象を見てても人によって見方・解釈が異なってしまうのです。




非常に簡単ではありましたが、物事の本質をとらえる考え方というのは、
①自分と違う視点にも考えを及ぼす
②物事の背後にある構造を考える
という2点が大きいと思われます。

こういった物の見方を知っているだけで、自分の視点や物事の表象だけにとらわれずに、日々の情報に接することができる様になるでしょう。時には自分自身が前提として立っているその立場自身を疑ってみたり、あるいは毎日のニュースや新聞で見かけたものが、どのような視点で以て書かれているのか?その背後にある構造は何か?ということを少し考えてみるだけでも、非常奥深い楽しさを感じられると思います。




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Webの楽しさを支える仮想経験

こんばんは。
Shunihciroです。



私たちの日常の中でWebの影響力が非常に大きくなってきております。Webの到来以来、私たちはますますWebに依存するようになり、Webなしでは生きられなくなってきているとは過言ではないでしょう。今日はそのWebというものについて考えてみます。


現在私たちの生活の中で多くの時間をWeb世界で過ごしています。mixiやFacebook等のSNSもそうですし、私が今書いているブログもそうです。ユーザーの中にはアバターを使ってピグだったりハボホテルを楽しんだり、オンラインゲームに熱中している方もいると思います。
Webが私たちをひきつけてやまない物はなんでしょう?

もちろんWebが与えてくれる利便性というものもあるかと思いますが、私たちを無意識化で強烈にひきつけているものは「仮想体験」というものです。Webを用いることで、現実ではできないことができるようになったり、あるいはWebを通して得られる経験が私たちを虜にしています。


このような例をあげていきます。
・SNS
コミュニティ(共同体)というものは昔から存在していましたが、それは現実に会ったことの者同士のグループだったり、ある特定の地域だったりしました。Webの中で、一度も会ったことのないもの同士が仮想的にコミュニティの中でやり取りすることにより、関係性を構築していくことになります。誕生日にお互いにメッセージを送り合ったり、あるいは特定の話題について盛り上がったり。このような仮想空間での関係は私たちをひきつけている一つです。
・アバター
アバターとは仮想空間における自分をあらわすキャラクターです。好みのファッションにしたり、あるいは現実の自分とは全然違う自分を表現することも可能です。アバターを用いて、ユーザー同士がコミュニケーションをしていきます。アメーバピグやハボホテル等はその代表例です。アバター空間の中で、ファションショーだったりある特定のイベントが開かれたり、あるいは自分の部屋(家)をカスタマイズして仮想空間内での友人にお披露目したりします。アバターを用いて、自分のファッションや家・部屋等を通して、現実とは違う自分、あるいは現実+1としての自分を演出することに引きつけられるものも多いと思います。


非常に簡単ではありましたが、Web上での仮想体験の例を挙げさせてもらいました。Webの楽しさを支える仮想体験は非常に重要であり、開発者側の視点から見るとこの仮想体験をいかにデザインし楽しんでもらえるか?がWeb上のコンテンツでヒットするかどうかの大きなポイントです。

ソーシャル性を高めて仮想空間内での友人とのコミュニケーションやつながりを楽しんでもらうものにするのか?ポイントやオンラインマネーなどを用いてゲーム性を出していくのか?どのようなレベル設定にすることで、誰でも楽しめて、かつ熱中性を高めていくのか?
非常に高度な仕掛けや調整を行っていくことになります。



今後私たちはますますWebに熱中していくようになるでしょう。その中でこの仮想経験というものがいかに力を発揮していくのか?あるいはどのように機能されていくのか?注目に値します。




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2013年6月13日木曜日

日本人にiPhoneは作れない

こんばんは。
Shunichiroです。

先ほどまでとは観点を思い切り変えて、今回のエントリではガラパゴス携帯と揶揄された日本のモノづくりと、世界中で大ヒットとなっているiPhoneについて考察していきたいと思います。


この問題を考えるときには「日本にはiPhoneを作るだけの技術は存在していた。しかし、開発できなかったのはなんでだろう?」とよく言われます。iPhoneの開発の問題は、技術の問題ではないのです。いったい何が日本のガラパゴス携帯とiPhoneの違いを生んでいるのでしょうか?私はそれは両者の開発の根底に流れている、国民性の違いにあると考えています。

日本は、昔から農耕社会であり、共同社会が存在し、お互いへの配慮や気遣いに長けた国であるとよく言われます。日本人の接客やきめ細かな配慮など、サービス業の質は世界一だと言われています。実際に日本人の持つ相手への配慮や気遣いなどは日本の長所であり、世界に誇ってもいい心遣いだと思います。
しかし、製品開発の世界においては、それが裏目に出てしまったように思われます。
気の利く日本人は、携帯電話の開発に当たって
「ユーザーはこんな使い方もしたいんじゃない?」
「こういう機能あると嬉しいよね」
「だったらこういう機能もあったほうが便利」
「いざという時のために、こんな機能もいるんじゃない?」
・・・
という形で(あくまで妄想ですが(笑))、ユーザーのことを色々と配慮してあげた結果、色んな機能がゴチャゴチャ入ってて使い勝手が悪いけど、どんな機能でも入ってるから便利といえば便利な製品ができてしまったのではないか、と思います。そしてその結果、値段も高くなってしまう。
このように他者への配慮、気遣いという国民性のもと生まれたのがガラパゴス携帯ではないのでしょうか?

逆にiPhoneを開発したのは、アメリカ人のスティーブ・ジョブス。
こちらもよく聞く話として開発者であるジョブスが「自分は世界一で斬新な携帯電話を作ろうと思ったわけじゃない。自分が使いたいと思う、理想的な携帯を作っただけだ」という趣旨のコメントをしたと言われています。「俺が使いたいような革新的な携帯なら、お前たちにも使い勝手がいいんじゃないか?」というような、ある種の強引さが見てとれるように思えます。
アメリカ人は多様性のある社会で生きてきたために自己主張とその背後にあるロジック性が大事にされています。もちろん相手の主張や立場に気を使ったりもしますが、自分の主張(とその背後にあるロジック)に絶対の自信があるからこそ、相手の主張に引きずられずに多少強引な押し出しができるのではないかと思います。


ガラパゴス携帯とiPhoneの決定的な差異はこの点にあると思います。
自分達の主張である製品に絶対的な自信を持ちそれをごり押しした結果のiPhoneと、自分達の主張である製品自体をユーザーの多種多様な主張に沿わせたものとしたその集合体としてのガラパゴス携帯。

日本人の配慮や気遣いは美徳に値するものだと誇りを持って言うことはできると思います。ただし、現在のように自身の主張なくして相手への配慮ばかりを優先させてしまっては”次のiPhone”は作れないでしょう。
自分達の主張もちゃんと大事にしていきつつ、相手への配慮も適度な範囲でできる様になるともっといい製品開発やサービスのあり方につながっていくのではないでしょうか?


ディスシプリンを変化させるものは・・・・マイノリティ・グループ

こんばんは。
Shunichiroです。

最近フーコー的な話ばかりで少し堅苦しいかもしれませんが、悪しからずお付き合いくださいませ。
先ほどのエントリでは、「ディスシプリン硬直化組織・集団退廃」ということで、社会の安定化にはディスシプリンの確立が必要になるが、ディスシプリンが硬直化してしまうと、集団それ自体の退廃のもとになってしまうため、ディスシプリン自体も社会や時代の変化に合わせて変わっていける様にすべきだと、述べさせてもらいました。
では、どうやったらディスシプリンを変化させることができるでしょうか?
今回のエントリではこの点を深堀していきたいと思います。


ディスシプリンとはその社会・その組織に固有の価値基軸であり、ディスシプリンにいかに忠実であるかという点で以て、その社会での地位が決まっていきます。つまりその社会において優秀だとかエリートだとか言われるものほど、ディスシプリンに染まっているのです。そのため、その社会を導けるような大きな力を持つものほど、その社会のディスシプリンに染まってしまっておりディスシプリン自体を変えるような発想などできなくなってしまっている構造ではないかと思います。


では、そんな社会のディスシプリンを変える方法とは何があるでしょうか?
まず1点目は「意図的に別のディスシプリンを持つものを引き入れる」があると思います。
先ほどのエントリでも事例として紹介したように、硬直化してしまった組織に別の価値観を持つ人間を引き入れ改革を主導してもらう、というものですね。某航空会社とか某自動車会社だとかがこれに当てはまりますね。企業などにおいては経営者が変わること、特に社外から著名な経営者を引き入れることはディスシプリンに変化をもたらすという意味でも非常に大きなものです。逆に、その会社の中で育ってきたサラリーマン社長などの場合、ディスシプリンに変化をもたらすことが難しいので、この変化の激しい時代の中で衰退してしまいがちなのではないのでしょうか。


ディスシプリンに変化をもたらす方法の2点目は「その社会その組織におけるマイノリティの力に頼る」というものがあると思います。
その社会におけるマイノリティとは、その社会のディスシプリンに染まり切れなかったもので、いわゆる主流にいる人たちとは持っている価値観などが異なります。そういった違う価値観を持った者たちをディスシプリンから異なると言って排除するのではなく、ある程度許容し、その価値観を取り入れていくことで、その社会全体のディスシプリンに変化をもたらすのではないかと思います。

ビジネスの話になってしまい申し訳ないのですが、その企業にイノベーションをもたらすのもいわゆるマイノリティグループだと言われています。ハーバード・ビジネス・スクールの教授でイノベーション論で有名なクレイトン・クリセンテンによると、スカンクワークス(少人数で従来のマネジメントの枠とは別枠の権限を持った新製品開発グループ)だったり数名による社内ベンチャーだったりするようです。

また、今度は国という大きな単位ですが、フランスは意図的に少数ずつの移民を受け入れることで、漸進的な社会の変化に成功しているそうです。また、アメリカは言わずと知れた移民大国であり、その多様性を活かし世界の最先端を進んでいます。

ただ、マイノリティ・グループの力を活かすという方法は、もろ刃の刃みたいなもので注意が必要です。マイノリティ・グループに力を与えすぎると、それはある種の革命や社会転覆の可能性を持っているのです。先ほどフランスの移民の例を紹介しましたが、最近は移民の中でもイスラム教徒の影響力が強くなってきており、キリスト教からの改宗者なども含めイスラム教の市民が多くなってきており、フランスのキリスト社会に危惧を抱かせているという問題もあるようです。

ディスシプリンの変化を呼び込むための、マイノリティ・グループの活用について、その方法論や手綱さばきなどはもっと研究されてもいいと思います。



社会の衰退を防ぐための、方法として①意図的に別のディスシプリンを持つものを引き入れる②その社会その組織におけるマイノリティの力に頼る、を紹介させてもらいました。

日進月歩でテクノロジーが進歩していき、また社会自体もその影響を受けどんどん変化していく世の中においては、自らが立脚している社会そのもののディスシプリンも柔軟に対応させていく勇気が必要になると思います。
皆さんは変わっていく心の準備はできているでしょうか?




ディスシプリンの硬直化と組織・集団の退廃

こんばんは。
Shunichiroです。

先日に続いて、フーコー的な観点からのお話です。
まず先日のエントリ「現代という牢獄というペルソナ」では、現代のような監視社会では集団に固有のディスシプリンが決まっており、そのディスシプリンに沿うよう教育していくというお話をしました。「監視社会限界という記事では、人々の価値観の多様化に伴い監視社会の限界が訪れるというお話をしました。社会の変化に対して、単一の価値基軸であるディスシプリン自体に限界が訪れ、人々をコントロール、悪く言うと支配できなくなるのです。

社会の発生時にはディスシプリンはそこまできっちり定まっていませんし、市民もそのディスシプリンに慣れていませんが、社会が成熟していくとともにディスシプリンはより確固たるものになっていき、さらに政府と市民からの2重監視によりディスシプリンは強化されていきます。ディスシプリンが定まっていない社会はある意味無秩序状態といえるので、社会自体が非常に不安定なのですが、ディスシプリンが定まるとともに社会の秩序は確立されていき、安定な社会になっていきます。より安定的な社会のためにはディスシプリンはある程度必要でしょう。

しかし、ここからが非常に難しいところになり今回の記事で一番主張したいことになりますが、導入部分で申し上げたように、社会の変化に対してディスシプリンにはいずれ限界が来てしまいます。一方、社会の成熟化・安定化のためにはディスシプリンの確立が必要です。
ではどうしたらいいのでしょうか?


その答えは、時代・社会の変化に応じて、ディスシプリン自体も漸進的に変化させていくこと、だと思います。ディスシプリンをいつまでも愚直に守り硬直化させてしまうのではなく、時と場合に応じて柔軟に変化させていくことが求められると思います。よく聞く話で「変化しない物はいつかは滅びる」とありますよね。社会のディスシプリンもそれと同じだと思います。


ちょっと話はそれますが、ビジネスの世界などでも同じようなことが起きます。
起業、スタートアップ時はマニュアルが存在せず、成すことすべてが初めてで資金繰りなども含めて非常に不安定の中進んでいきます。そして、事業を進めていくにつれ要領がわかるようになり、手続きなどもマニュアル化され、事業は安定し始めます。しかし、事業が安定してしばらくの間はよいのですが、そのうちに新規参入企業やニーズの変化などが起こり始めます。その変化に対応できない企業はそこでどんどん衰退の道を辿っていくことになります。変化に対応できた企業だけが生き残っていくことができるのです。


このビジネス界でのお話は、ディスシプリンのお話と非常に似ていると思いませんか?
特にディスシプリンを変化させることができず、時代に取り残され始めている企業にはよく言う大企業が多いように思えます。隠ぺい体質だとか殿様体質だとか管理のずさんさだとか日本の大きな電力企業はどうも硬直化したディスシプリンの罠にはまっているように思います。一度市場から撤退してしまった某航空会社もディスシプリンの罠にはまっていたのではないかと思います。この航空会社は社外から取締役を引き入れ、取締役が組織体制や職場の風土というものからすべて刷新し、並々ならない改革を行い、経営力を取り戻しました。



ディスシプリンの確立は社会の成熟・安定のためには必要なのですが、ディスシプリンを過度に硬直化させてしまわず、常に時代・社会の変化に合わせてディスシプリン自体も変化させていくことが重要だと思います。



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石油をめぐる世界資源戦争

こんばんは。
Shunichiroです。

今も一昔前も変わらず、石油や天然ガスなどの資源・エネルギーは世界中で希求され、戦争などの火種になったりしています。最近ではアメリカを起点にシェールガス革命も起こり、今後の資源をめぐる各国の様相に大きな変化を与えるものと思われます。


今回のエントリでは‘石油’に焦点を当て、資源消費大国アメリカと成長著しい中国、インドの動向を追っていきたいと思います。

石油というと皆さん、すぐに頭浮かぶのが中東の石油産出国ですよね。サウジアラビアやイラク、クウェート、UAE・・・資源消費大国のアメリカは中東石油利権を握ろうと戦争行ったり、強引な手段を使ったりした結果、中東から多くの石油を輸入しています。この中東の石油はアメリカだけでなく、私たち日本やEU諸国も輸入しています。

しかし、この中東石油に成長著しい中国、インドも輸入をし始めました。中東石油に多くの国の利権が絡んだ状態です。もともと、この中東地域は宗教紛争などもあり政治的に非常に不安定だったのですが、それに増して各国の石油利害の衝突までもが起こるようになりました。中東石油はさらにリスクが高まり不安定になりますね。

その結果、資源消費大国は中東以外の石油にも目をつけ始めます。
一番に狙われたのは、豊富な資源があるとされているアフリカ。中国は開発援助などを通じて、アフリカ諸国とのパイプ作りを始めています。(ただし、中国の開発援助は非常に強引な手法を用いているため、被援助国にとってマイナスになってしまっていると言われています。)アメリカは超大国、さらには安保理メンバーとしての力を活かして、紛争の解決と引き換えに石油利権を得ようとしています。インドは貿易などを通じて、石油を得ようとしています。
またアフリカでの資源は旧宗主国であるフランスも利権を持っているため、石油をめぐった争いが非常に複雑化しています。

また、ラテンアメリカは以前より「アメリカの裏庭」と呼ばれ、アメリカの石油調達先となっていましたが、このラテンアメリカにも中国は入り込もうとしています。


非常にざっくりと世界の石油をめぐる各国の暗闘を紹介しました。天然資源はいずれ枯渇すること、世界の資源消費は今後もますます増加していくことを考えると、現在のライフスタイルや世界のあり方は非常に問題ですね。石油に代わるエネルギーとして見込まれていた原子力発電も今後どうなるかわかりません。

世界はこの喫緊の課題の解消を目指していかなければ、いずれ世界資源戦争ではなく、本当の世界戦争が起きてしまうかもしれませんね。



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ブラッド・オイル 世界資源戦争
覇権と石油―石油を巡る米英の角遂の歴史
世界資源戦争

監視社会の限界とその先

こんばんは。
Shunichiroです。

先日のエントリではフーコーに学び「現代という牢獄と私というペルソナ」というタイトルで、現代社会の監視による支配の構造と、取り換え可能な私たちがアイデンティティの在りかを求め、ペルソナを被り始めるという観点で記事にしました。
今日は監視社会の限界と社会が向かう方向について記事にしていきたいと思います。


監視社会では徹底したディスシプリン=規律のたたき込みと上(政府)からと下(市民)からの監視の構造による管理支配体制が敷かれております。この中では、ディスシプリンに従順で画一的な個人が生産されていき、成績や偏差値などの尺度で以て分類され、その結果社会の歯車としての役割を与えられていきます。

このディスシプリンを教え込む仕組みの一つが`刑罰’です。ディスシプリンに逆らうと刑罰が与えられ、その戒めによってさらにディスシプリンが強化されていきます。ちなみに、中世では身体罰をもって刑罰としていました。いわゆる拷問的なこととか火あぶりの刑だとかを観衆の前で見せしめにすることによって、ディスシプリンの強化を行っていました。現在ではほとんどが精神罰です。刑務所に入ることで身体の自由を奪い、その屈辱で以てディスシプリンへの従属意識を喚起させます。

このような刑罰は社会の目指す方向を表わしています。
中世において大事にされたものは、恐怖による統治。現在において大事にされているのは精神の自由。要は人権ですね。

少し脱線してしまいました。
監視による管理支配体制は形や権力者を変え中世より続いてきましたが、完ぺきに機能しているわけではありません。というのも、いつでも、どんな刑罰が設定されようと、犯罪の発生は必ず起こってしまっているからです。どれだけディスシプリンを強化しても、そのディスシプリンに逆らう人間が出てきてしまうのです。

それはなぜか?
そもそも人間それぞれ固有の意思があり、価値観があり、考えかたがあり、全てが多種多様なはずです。それを無理やり単一の価値観、枠組みにあてはめてしまおうとすること自体に限界があるのです。それに中世のように人口が少なく価値観などの選択の幅が少なかった時代でさえディスシプリンが完全には機能していなかったのに、現在のようにグローバル化が進み、ファッション、音楽、テクノロジー、ライフスタイル、国籍、人種、IT・・・あらゆるものの選択の幅が広がってしまった中においては、ディスシプリンが機能しなくなるのも当然でしょう。
監視社会、管理支配体制に限界が近づいてきていると言えるでしょう。



監視社会、管理支配体制の限界が近付いている現在の状況で、これから社会はどのようになっていくのでしょうか?

まず市民においては、現在でも個人がアイデンティティを求め始めペルソナを探し始めているということを先ほど述べました。今後、その傾向がさらに強まるでしょう。画一的で取り換え可能な私ではなく、特別な個人になりたい。その欲求はどんどん高まり、市民の間で広がっていきます。その結果起業する人が増えたり、あるいは社会的な活動にエネルギーを費やす人が増えていくでしょう。自分なりのアイデンティティを確立するため、今までのように社会のシステムに縛られているのではなく、自ら行動していきたい、自ら独立して生きていきたいというマインドセットに移り変わっていくでしょう。

政府のレベルにおいては、上記のように管理支配に従わない者が増えていく中で、政府の管理能力は日増しに小さくなっていくでしょう。市民の社会活動によるシステムへの抵抗や告発が起きてくると思います。革命が起こるとまでは言いませんが、少なくとも現在のように`お上’として市民に対して威圧的にふるまうことはできなくなると思われます。政府の機能はどんどん小さくなり、市民によるオピニオンや行動が国を動かしていくのではないかと思われます。



このようなシナリオは空想のものとは言い切れません。現在でも市民の社会運動が活発になり、企業や政府に影響力を与えていくという事象はすでに起こり始めています。

フーコーを出発点にした旅もここまで来ましたね。
彼の仕事についてはもっともっと勉強していきたいと思っています。

2013年6月12日水曜日

現代という牢獄と私というペルソナ

こんばんは。
Shunichiroです。

最近フーコーに興味が出てきて、彼の著作を読んだり彼の投げかけた問いに対して考えたりしています。


あなたは、今生きているこの社会というものに対して疑問を抱いたり、生きづらさを感じることはありませんか?自分で問いかけておいてなんですが(汗)、多分そんなことはないと思います。たまにはしんどい時や息苦しさを感じることはあるかもしれませんが、概ね満足しているし、基本的にはこの社会に対する疑問などはないでしょう。
でも、それはなぜ?

現代の社会では、少数の権力者が多数の市民を管理するための構造が整っています。’管理する’というと嫌な気持ちになる人もいるかもしれませんが、今の世の中はたくさんの市民がいて、その上にいくらかの役人(市役所や行政など)がいて、されらにその上には少数の官僚がいて、さらにその上にはもっと少数の議員がいて、この国が運営されています。逆から見ると、この上の層の少数の人々がより良い統治を行うために、その下にいる多くの人間をコントロールしているということができます。

そのコントロールを可能にするのに必要なものが「ディスシプリン(規律)」です。私たちはありとあらゆる場所で、このディスシプリンをたたき込まれます。
毎日学校に行かなきゃだめよ。
先生の言うことは聞きなさいよ。
ちゃんと列に並ばなきゃだめよ。
・・・
このディスシプリンに従わないと、私たちは罰を受ける様になっています。特別に呼び出されて説教を受けたり、給料を下げられたり、停学や退学になったり、時には精神病院送りにされかねません。また、このディスシプリンに従わない人は周りの人たちからも避けられたり変人扱いされたりします。

こういった構図により、社会のディスシプリンに従っているかどうかを政府からのコントロールと同じく市民からの目線によるコントロールによって、私たち市民は2重に監視されているのです。私たちは現代という牢獄にとらわれ、社会という看守と周りの市民という密告人に日々監視されている社会に生きているのです。しかしその状態が当たり前であり、また自らも監視し監視されているという状態に気づかない無意識の管理が徹底して無意識化まで浸透されているからこそ、私たちはこの社会に対して何の違和感もなく、満足して生活することができているのです。



このような世の中(つまり現代社会)では、個の私という人間は重視されず、社会という歯車がちゃんと回ることが重視されます。少数による支配を保ちつつ。私たちは教育システムや社会との関わりの中で、社会のディスシプリンに忠実な人間としてあらゆる場所で育て上げられます。その結果、多少の出来の違いはあるにせよ、概ねみんな同じような価値観を持ち、同じような作業をこなせ、同じような考え方を持つ人間になっていきます。

どこかで聞いたような話ではないでしょうか?
そう、まさに私たちが受けてきた教育そのものではないでしょうか?
学校や地域社会、あるいは職場の中で、ある共通のディスシプリンに従うように強制され、よりよく順応しているかどうかを試験や成績というもので測られ、その出来不出来によって官僚になっていったり科学者になっていったり会社員になっていったり工員になっていったりするのです。

教育そして分類の結果、同じような価値観、同じような能力、同じような考え方の者がだいたいある一部のセクターに集められるようになります。そこでは右を見ても左を見ても自分とは同じような人ばかり。自分でなくても、同じセクターにいる誰かで代替可能で、’私’個人そのものが重視されることはない。自分でなければならない、自分以外の人間では代役が務まらない。そんな場所があるのでしょうか?

誰しもそうだと思いますが、私たちは自分が代替の利く歯車の一つだと思いたくありません。そこで私たちは自分が他の人と同じ歯車の一つではなく、自分は特別で代わりの利かない人間なんだと主張するようになります。それがアイデンティティです。そして、彼らは自分が特別である、アイデンティティがあると主張する為にペルソナを被り始めるのです。自分が他の歯車とちょっと違う何者かであるかのように。


フーコーの主張と現代社会と、そこに生きる私たちの様相を考えていくと、現代の社会は、まるで、権力側と市民側の両方による2重監視社会という牢獄の中で、替えの利く歯車たちが手当たり次第にペルソナを被り、「自分は特別なんだ」と主張し合う戯曲のようですね。




興味ある方はフーコーの著作について調べてみると面白いと思います。

2013年6月7日金曜日

米シェールガス革命の先の世界には、米印-中露の冷戦が待っている!?

こんばんは。
Shunichiroです。

アベノミクスに沸く日本ではここ数日日経平均株価がどんどん下がっており、日本の金融動向が非常に不安定なものになってきましたね。投資家としては、先が読めず(まあ、株なんて先が読めるようなものではありませんが・・・)非常に怖い局面です。


今回のエントリは、アメリカで沸いているシェールガス革命について、シェールガス革命により今後アメリカはどうなり、世界はどうなるのか?を考察していきたいと思います。


1.シェールガス革命により強いアメリカの回帰
アメリカは非常に危険な財政状況にいます。サブプライムローン問題に続くリーマンショックにて、公的資金による大手銀行救済を行ったため、今度はアメリカ政府自体が財政危機に陥っています。オバマ政権では政府の税収を増やすため、製造業の国内回帰を目指すなど色々な施策をおこなおうとしていますが、一時デフォルトに陥る直前に至るなど、アメリカ財政は火の車でした。世界的な位置づけとしても、中国が目立つ一方、アメリカの影響力に陰りが見えていました。

しかし、このような状況の中まるで救世主かのように、シェールガス革命が起こりました。シェールガス革命とは、地層に存在する天然ガスの新しい採掘方法が見つかり、今まで回収できていなかった天然ガスを採掘できるようになったことを意味しています。言うまでもなく、石油や天然ガスなどの資源は非常に大きな利益をもたらします。シェールガス採掘に参加する新規企業の参入だけでなく、外国からの資源輸入を減らすことができ、さらには国外への輸出による収入を得ることができます。

世界的影響力の低下の憂き目にあっていたアメリカは、シェールガス革命によって財政危機からの一時脱却および国際的な地位の維持ができる様になります。国際社会における強いアメリカの回帰といえるでしょう。


2.TPP、原発連合による中国封じ込め政策実施
強いアメリカに回復したことで、今やGDP世界第2位であり、国際的に影響力を及ぼし始めている中国を抑え込もうとします。日本でも話題になっているTPPによる環太平洋諸国の抱きかかえもその一つでしょう。また、つい最近ニュースになった日本によるトルコ、インドへの原発輸出の件、これもアメリカによる中国封じ込めの一環だと考えています。ここでは詳しく書きませんが、日本の原子力政策はアメリカの意思と非常に密接に関連しています。そのため、日本の原子力政策=アメリカの原子力政策=核兵器政策とみなしてよいと思っています。
インド、トルコに原発を輸出することで、アメリカ側に引き入れることが狙いです。


3.中国、ロシアの接近。
さて、囲い込まれようとする中国側も対策を行います。ロシアとの関係構築です。
ロシアは核保有国であり、戦後長い間アメリカを敵視していました。また其れだけでなく、天然ガス輸出国であるロシアは、アメリカのシェールガス革命により、ロシアの天然ガス市場が奪われようとしています。これを防ぐ意味でも、中国とロシアの結託は両者にとってwin-winと言えるでしょう。
(シリア問題において、すでに両者は接近しており、両者ともに体制派(アサド政権側)を支援しています)

4.米印-中露における冷戦構造に。
以上1~3の考察により、シェールガス革命により、強いアメリカの回帰と中国封じ込め政策の結果、米印-中露による冷静構造が構築されます。ただ、この冷戦は過去の米‐露間のように表出しやすい形ではなく、社会の裏での戦いになると思われます。例えるなら、一緒にご飯を楽しみ乾杯しているテーブルの下では、お互いに相手の足をふんづけようとしたり脛を蹴ろうとしていたりという状況です。




過去の冷戦では、ソ連の崩壊によって冷戦の解消がなされましたが、今回の冷戦では何が解決に導く鍵となるのでしょうか?またこのような中、アメリカ‐中国に挟まれる位置にある日本はどのような位置づけ、役割を担っていくことになるのでしょうか?
今後の国際情勢を注意して見ていくとともに、日本のあり方について考えなければなりませんね。



※それと今後は通しNo.にて更新していきます。悪しからずご了承ください。