2013年6月13日木曜日

ディスシプリンの硬直化と組織・集団の退廃

こんばんは。
Shunichiroです。

先日に続いて、フーコー的な観点からのお話です。
まず先日のエントリ「現代という牢獄というペルソナ」では、現代のような監視社会では集団に固有のディスシプリンが決まっており、そのディスシプリンに沿うよう教育していくというお話をしました。「監視社会限界という記事では、人々の価値観の多様化に伴い監視社会の限界が訪れるというお話をしました。社会の変化に対して、単一の価値基軸であるディスシプリン自体に限界が訪れ、人々をコントロール、悪く言うと支配できなくなるのです。

社会の発生時にはディスシプリンはそこまできっちり定まっていませんし、市民もそのディスシプリンに慣れていませんが、社会が成熟していくとともにディスシプリンはより確固たるものになっていき、さらに政府と市民からの2重監視によりディスシプリンは強化されていきます。ディスシプリンが定まっていない社会はある意味無秩序状態といえるので、社会自体が非常に不安定なのですが、ディスシプリンが定まるとともに社会の秩序は確立されていき、安定な社会になっていきます。より安定的な社会のためにはディスシプリンはある程度必要でしょう。

しかし、ここからが非常に難しいところになり今回の記事で一番主張したいことになりますが、導入部分で申し上げたように、社会の変化に対してディスシプリンにはいずれ限界が来てしまいます。一方、社会の成熟化・安定化のためにはディスシプリンの確立が必要です。
ではどうしたらいいのでしょうか?


その答えは、時代・社会の変化に応じて、ディスシプリン自体も漸進的に変化させていくこと、だと思います。ディスシプリンをいつまでも愚直に守り硬直化させてしまうのではなく、時と場合に応じて柔軟に変化させていくことが求められると思います。よく聞く話で「変化しない物はいつかは滅びる」とありますよね。社会のディスシプリンもそれと同じだと思います。


ちょっと話はそれますが、ビジネスの世界などでも同じようなことが起きます。
起業、スタートアップ時はマニュアルが存在せず、成すことすべてが初めてで資金繰りなども含めて非常に不安定の中進んでいきます。そして、事業を進めていくにつれ要領がわかるようになり、手続きなどもマニュアル化され、事業は安定し始めます。しかし、事業が安定してしばらくの間はよいのですが、そのうちに新規参入企業やニーズの変化などが起こり始めます。その変化に対応できない企業はそこでどんどん衰退の道を辿っていくことになります。変化に対応できた企業だけが生き残っていくことができるのです。


このビジネス界でのお話は、ディスシプリンのお話と非常に似ていると思いませんか?
特にディスシプリンを変化させることができず、時代に取り残され始めている企業にはよく言う大企業が多いように思えます。隠ぺい体質だとか殿様体質だとか管理のずさんさだとか日本の大きな電力企業はどうも硬直化したディスシプリンの罠にはまっているように思います。一度市場から撤退してしまった某航空会社もディスシプリンの罠にはまっていたのではないかと思います。この航空会社は社外から取締役を引き入れ、取締役が組織体制や職場の風土というものからすべて刷新し、並々ならない改革を行い、経営力を取り戻しました。



ディスシプリンの確立は社会の成熟・安定のためには必要なのですが、ディスシプリンを過度に硬直化させてしまわず、常に時代・社会の変化に合わせてディスシプリン自体も変化させていくことが重要だと思います。



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