こんばんは。
Shunichiroです。
先日のエントリではフーコーに学び「現代という牢獄と私というペルソナ」というタイトルで、現代社会の監視による支配の構造と、取り換え可能な私たちがアイデンティティの在りかを求め、ペルソナを被り始めるという観点で記事にしました。
今日は監視社会の限界と社会が向かう方向について記事にしていきたいと思います。
監視社会では徹底したディスシプリン=規律のたたき込みと上(政府)からと下(市民)からの監視の構造による管理支配体制が敷かれております。この中では、ディスシプリンに従順で画一的な個人が生産されていき、成績や偏差値などの尺度で以て分類され、その結果社会の歯車としての役割を与えられていきます。
このディスシプリンを教え込む仕組みの一つが`刑罰’です。ディスシプリンに逆らうと刑罰が与えられ、その戒めによってさらにディスシプリンが強化されていきます。ちなみに、中世では身体罰をもって刑罰としていました。いわゆる拷問的なこととか火あぶりの刑だとかを観衆の前で見せしめにすることによって、ディスシプリンの強化を行っていました。現在ではほとんどが精神罰です。刑務所に入ることで身体の自由を奪い、その屈辱で以てディスシプリンへの従属意識を喚起させます。
このような刑罰は社会の目指す方向を表わしています。
中世において大事にされたものは、恐怖による統治。現在において大事にされているのは精神の自由。要は人権ですね。
少し脱線してしまいました。
監視による管理支配体制は形や権力者を変え中世より続いてきましたが、完ぺきに機能しているわけではありません。というのも、いつでも、どんな刑罰が設定されようと、犯罪の発生は必ず起こってしまっているからです。どれだけディスシプリンを強化しても、そのディスシプリンに逆らう人間が出てきてしまうのです。
それはなぜか?
そもそも人間それぞれ固有の意思があり、価値観があり、考えかたがあり、全てが多種多様なはずです。それを無理やり単一の価値観、枠組みにあてはめてしまおうとすること自体に限界があるのです。それに中世のように人口が少なく価値観などの選択の幅が少なかった時代でさえディスシプリンが完全には機能していなかったのに、現在のようにグローバル化が進み、ファッション、音楽、テクノロジー、ライフスタイル、国籍、人種、IT・・・あらゆるものの選択の幅が広がってしまった中においては、ディスシプリンが機能しなくなるのも当然でしょう。
監視社会、管理支配体制に限界が近づいてきていると言えるでしょう。
監視社会、管理支配体制の限界が近付いている現在の状況で、これから社会はどのようになっていくのでしょうか?
まず市民においては、現在でも個人がアイデンティティを求め始めペルソナを探し始めているということを先ほど述べました。今後、その傾向がさらに強まるでしょう。画一的で取り換え可能な私ではなく、特別な個人になりたい。その欲求はどんどん高まり、市民の間で広がっていきます。その結果起業する人が増えたり、あるいは社会的な活動にエネルギーを費やす人が増えていくでしょう。自分なりのアイデンティティを確立するため、今までのように社会のシステムに縛られているのではなく、自ら行動していきたい、自ら独立して生きていきたいというマインドセットに移り変わっていくでしょう。
政府のレベルにおいては、上記のように管理支配に従わない者が増えていく中で、政府の管理能力は日増しに小さくなっていくでしょう。市民の社会活動によるシステムへの抵抗や告発が起きてくると思います。革命が起こるとまでは言いませんが、少なくとも現在のように`お上’として市民に対して威圧的にふるまうことはできなくなると思われます。政府の機能はどんどん小さくなり、市民によるオピニオンや行動が国を動かしていくのではないかと思われます。
このようなシナリオは空想のものとは言い切れません。現在でも市民の社会運動が活発になり、企業や政府に影響力を与えていくという事象はすでに起こり始めています。
フーコーを出発点にした旅もここまで来ましたね。
彼の仕事についてはもっともっと勉強していきたいと思っています。
Shunichiroです。
先日のエントリではフーコーに学び「現代という牢獄と私というペルソナ」というタイトルで、現代社会の監視による支配の構造と、取り換え可能な私たちがアイデンティティの在りかを求め、ペルソナを被り始めるという観点で記事にしました。
今日は監視社会の限界と社会が向かう方向について記事にしていきたいと思います。
監視社会では徹底したディスシプリン=規律のたたき込みと上(政府)からと下(市民)からの監視の構造による管理支配体制が敷かれております。この中では、ディスシプリンに従順で画一的な個人が生産されていき、成績や偏差値などの尺度で以て分類され、その結果社会の歯車としての役割を与えられていきます。
このディスシプリンを教え込む仕組みの一つが`刑罰’です。ディスシプリンに逆らうと刑罰が与えられ、その戒めによってさらにディスシプリンが強化されていきます。ちなみに、中世では身体罰をもって刑罰としていました。いわゆる拷問的なこととか火あぶりの刑だとかを観衆の前で見せしめにすることによって、ディスシプリンの強化を行っていました。現在ではほとんどが精神罰です。刑務所に入ることで身体の自由を奪い、その屈辱で以てディスシプリンへの従属意識を喚起させます。
このような刑罰は社会の目指す方向を表わしています。
中世において大事にされたものは、恐怖による統治。現在において大事にされているのは精神の自由。要は人権ですね。
少し脱線してしまいました。
監視による管理支配体制は形や権力者を変え中世より続いてきましたが、完ぺきに機能しているわけではありません。というのも、いつでも、どんな刑罰が設定されようと、犯罪の発生は必ず起こってしまっているからです。どれだけディスシプリンを強化しても、そのディスシプリンに逆らう人間が出てきてしまうのです。
それはなぜか?
そもそも人間それぞれ固有の意思があり、価値観があり、考えかたがあり、全てが多種多様なはずです。それを無理やり単一の価値観、枠組みにあてはめてしまおうとすること自体に限界があるのです。それに中世のように人口が少なく価値観などの選択の幅が少なかった時代でさえディスシプリンが完全には機能していなかったのに、現在のようにグローバル化が進み、ファッション、音楽、テクノロジー、ライフスタイル、国籍、人種、IT・・・あらゆるものの選択の幅が広がってしまった中においては、ディスシプリンが機能しなくなるのも当然でしょう。
監視社会、管理支配体制に限界が近づいてきていると言えるでしょう。
監視社会、管理支配体制の限界が近付いている現在の状況で、これから社会はどのようになっていくのでしょうか?
まず市民においては、現在でも個人がアイデンティティを求め始めペルソナを探し始めているということを先ほど述べました。今後、その傾向がさらに強まるでしょう。画一的で取り換え可能な私ではなく、特別な個人になりたい。その欲求はどんどん高まり、市民の間で広がっていきます。その結果起業する人が増えたり、あるいは社会的な活動にエネルギーを費やす人が増えていくでしょう。自分なりのアイデンティティを確立するため、今までのように社会のシステムに縛られているのではなく、自ら行動していきたい、自ら独立して生きていきたいというマインドセットに移り変わっていくでしょう。
政府のレベルにおいては、上記のように管理支配に従わない者が増えていく中で、政府の管理能力は日増しに小さくなっていくでしょう。市民の社会活動によるシステムへの抵抗や告発が起きてくると思います。革命が起こるとまでは言いませんが、少なくとも現在のように`お上’として市民に対して威圧的にふるまうことはできなくなると思われます。政府の機能はどんどん小さくなり、市民によるオピニオンや行動が国を動かしていくのではないかと思われます。
このようなシナリオは空想のものとは言い切れません。現在でも市民の社会運動が活発になり、企業や政府に影響力を与えていくという事象はすでに起こり始めています。
フーコーを出発点にした旅もここまで来ましたね。
彼の仕事についてはもっともっと勉強していきたいと思っています。
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