こんばんは。
Shunichiroです。
最近フーコーに興味が出てきて、彼の著作を読んだり彼の投げかけた問いに対して考えたりしています。
あなたは、今生きているこの社会というものに対して疑問を抱いたり、生きづらさを感じることはありませんか?自分で問いかけておいてなんですが(汗)、多分そんなことはないと思います。たまにはしんどい時や息苦しさを感じることはあるかもしれませんが、概ね満足しているし、基本的にはこの社会に対する疑問などはないでしょう。
でも、それはなぜ?
現代の社会では、少数の権力者が多数の市民を管理するための構造が整っています。’管理する’というと嫌な気持ちになる人もいるかもしれませんが、今の世の中はたくさんの市民がいて、その上にいくらかの役人(市役所や行政など)がいて、されらにその上には少数の官僚がいて、さらにその上にはもっと少数の議員がいて、この国が運営されています。逆から見ると、この上の層の少数の人々がより良い統治を行うために、その下にいる多くの人間をコントロールしているということができます。
そのコントロールを可能にするのに必要なものが「ディスシプリン(規律)」です。私たちはありとあらゆる場所で、このディスシプリンをたたき込まれます。
毎日学校に行かなきゃだめよ。
先生の言うことは聞きなさいよ。
ちゃんと列に並ばなきゃだめよ。
・・・
このディスシプリンに従わないと、私たちは罰を受ける様になっています。特別に呼び出されて説教を受けたり、給料を下げられたり、停学や退学になったり、時には精神病院送りにされかねません。また、このディスシプリンに従わない人は周りの人たちからも避けられたり変人扱いされたりします。
こういった構図により、社会のディスシプリンに従っているかどうかを政府からのコントロールと同じく市民からの目線によるコントロールによって、私たち市民は2重に監視されているのです。私たちは現代という牢獄にとらわれ、社会という看守と周りの市民という密告人に日々監視されている社会に生きているのです。しかしその状態が当たり前であり、また自らも監視し監視されているという状態に気づかない無意識の管理が徹底して無意識化まで浸透されているからこそ、私たちはこの社会に対して何の違和感もなく、満足して生活することができているのです。
このような世の中(つまり現代社会)では、個の私という人間は重視されず、社会という歯車がちゃんと回ることが重視されます。少数による支配を保ちつつ。私たちは教育システムや社会との関わりの中で、社会のディスシプリンに忠実な人間としてあらゆる場所で育て上げられます。その結果、多少の出来の違いはあるにせよ、概ねみんな同じような価値観を持ち、同じような作業をこなせ、同じような考え方を持つ人間になっていきます。
どこかで聞いたような話ではないでしょうか?
そう、まさに私たちが受けてきた教育そのものではないでしょうか?
学校や地域社会、あるいは職場の中で、ある共通のディスシプリンに従うように強制され、よりよく順応しているかどうかを試験や成績というもので測られ、その出来不出来によって官僚になっていったり科学者になっていったり会社員になっていったり工員になっていったりするのです。
教育そして分類の結果、同じような価値観、同じような能力、同じような考え方の者がだいたいある一部のセクターに集められるようになります。そこでは右を見ても左を見ても自分とは同じような人ばかり。自分でなくても、同じセクターにいる誰かで代替可能で、’私’個人そのものが重視されることはない。自分でなければならない、自分以外の人間では代役が務まらない。そんな場所があるのでしょうか?
誰しもそうだと思いますが、私たちは自分が代替の利く歯車の一つだと思いたくありません。そこで私たちは自分が他の人と同じ歯車の一つではなく、自分は特別で代わりの利かない人間なんだと主張するようになります。それがアイデンティティです。そして、彼らは自分が特別である、アイデンティティがあると主張する為にペルソナを被り始めるのです。自分が他の歯車とちょっと違う何者かであるかのように。
フーコーの主張と現代社会と、そこに生きる私たちの様相を考えていくと、現代の社会は、まるで、権力側と市民側の両方による2重監視社会という牢獄の中で、替えの利く歯車たちが手当たり次第にペルソナを被り、「自分は特別なんだ」と主張し合う戯曲のようですね。
興味ある方はフーコーの著作について調べてみると面白いと思います。
Shunichiroです。
最近フーコーに興味が出てきて、彼の著作を読んだり彼の投げかけた問いに対して考えたりしています。
あなたは、今生きているこの社会というものに対して疑問を抱いたり、生きづらさを感じることはありませんか?自分で問いかけておいてなんですが(汗)、多分そんなことはないと思います。たまにはしんどい時や息苦しさを感じることはあるかもしれませんが、概ね満足しているし、基本的にはこの社会に対する疑問などはないでしょう。
でも、それはなぜ?
現代の社会では、少数の権力者が多数の市民を管理するための構造が整っています。’管理する’というと嫌な気持ちになる人もいるかもしれませんが、今の世の中はたくさんの市民がいて、その上にいくらかの役人(市役所や行政など)がいて、されらにその上には少数の官僚がいて、さらにその上にはもっと少数の議員がいて、この国が運営されています。逆から見ると、この上の層の少数の人々がより良い統治を行うために、その下にいる多くの人間をコントロールしているということができます。
そのコントロールを可能にするのに必要なものが「ディスシプリン(規律)」です。私たちはありとあらゆる場所で、このディスシプリンをたたき込まれます。
毎日学校に行かなきゃだめよ。
先生の言うことは聞きなさいよ。
ちゃんと列に並ばなきゃだめよ。
・・・
このディスシプリンに従わないと、私たちは罰を受ける様になっています。特別に呼び出されて説教を受けたり、給料を下げられたり、停学や退学になったり、時には精神病院送りにされかねません。また、このディスシプリンに従わない人は周りの人たちからも避けられたり変人扱いされたりします。
こういった構図により、社会のディスシプリンに従っているかどうかを政府からのコントロールと同じく市民からの目線によるコントロールによって、私たち市民は2重に監視されているのです。私たちは現代という牢獄にとらわれ、社会という看守と周りの市民という密告人に日々監視されている社会に生きているのです。しかしその状態が当たり前であり、また自らも監視し監視されているという状態に気づかない無意識の管理が徹底して無意識化まで浸透されているからこそ、私たちはこの社会に対して何の違和感もなく、満足して生活することができているのです。
このような世の中(つまり現代社会)では、個の私という人間は重視されず、社会という歯車がちゃんと回ることが重視されます。少数による支配を保ちつつ。私たちは教育システムや社会との関わりの中で、社会のディスシプリンに忠実な人間としてあらゆる場所で育て上げられます。その結果、多少の出来の違いはあるにせよ、概ねみんな同じような価値観を持ち、同じような作業をこなせ、同じような考え方を持つ人間になっていきます。
どこかで聞いたような話ではないでしょうか?
そう、まさに私たちが受けてきた教育そのものではないでしょうか?
学校や地域社会、あるいは職場の中で、ある共通のディスシプリンに従うように強制され、よりよく順応しているかどうかを試験や成績というもので測られ、その出来不出来によって官僚になっていったり科学者になっていったり会社員になっていったり工員になっていったりするのです。
教育そして分類の結果、同じような価値観、同じような能力、同じような考え方の者がだいたいある一部のセクターに集められるようになります。そこでは右を見ても左を見ても自分とは同じような人ばかり。自分でなくても、同じセクターにいる誰かで代替可能で、’私’個人そのものが重視されることはない。自分でなければならない、自分以外の人間では代役が務まらない。そんな場所があるのでしょうか?
誰しもそうだと思いますが、私たちは自分が代替の利く歯車の一つだと思いたくありません。そこで私たちは自分が他の人と同じ歯車の一つではなく、自分は特別で代わりの利かない人間なんだと主張するようになります。それがアイデンティティです。そして、彼らは自分が特別である、アイデンティティがあると主張する為にペルソナを被り始めるのです。自分が他の歯車とちょっと違う何者かであるかのように。
フーコーの主張と現代社会と、そこに生きる私たちの様相を考えていくと、現代の社会は、まるで、権力側と市民側の両方による2重監視社会という牢獄の中で、替えの利く歯車たちが手当たり次第にペルソナを被り、「自分は特別なんだ」と主張し合う戯曲のようですね。
興味ある方はフーコーの著作について調べてみると面白いと思います。
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